シェアハウスに住むことは旅をすることだ!
毎晩ゲストハウスに泊まる旅路の途中、電車に揺られながら考えた。
ホテルではなくゲストハウスに泊まるのは、それがひとつのコミュニケーションの手段だからだ。
朝の挨拶とか、「先にシャワーお借りしますね。」とか「どこからいらしたんですか?」とか、会話をしなければいけない場面がたくさん生まれるし、自然と会話をしたくなる雰囲気がある。
でもこれってシェアハウスも同じだ。
シェアハウスに住むこと、つまり一緒に生活を営むことはコミュニケーション手段のひとつだ。コミュニケーションを取らねばならない状況に、覚悟を決めて、自分の身を置く。
ではどうして覚悟を決めてまでシェアハウスに住むのか?
喧嘩するかもしれないし、思い通りにならないこともある。一緒に住む人の嫌なところも見えるかもしれない。
ただ単にコミュニケーションをとりたいから?
一緒にいることで安心感を得たいから?
"シェアハウスに住んでいる"というアイデンティティを獲得したいから?
いや、違う。
それは決して、相手の中にある、私と共通のものを数え上げて安心したいという、気弱さゆえのコミュニケーションではない。
もちろん、共通点もある。築50年以上の住まいでも、今あるものを大切にして生活したいとか、マイルームは狭くても平気とか、だけどプライベートは大切にするとか。そういった価値観は共通していると思う。
だけどやはり、私がシェアハウスに住むのは、似たもの同士が集まり安心感を得たいという気持ちゆえではない。
"違いに対して目を瞑ることで、似たところだけによって繋ぎ止められた連帯感"のようなものを求めているわけでもない。
ではどうして?
今は1つのシェアハウスで、10人の"他者"と一緒に生活を営んでいる。
それはつまり、10通りの異なる生を営んできた、10人の"他者"を発見する機会があるということ。
一緒に生活をするとなると、思わぬ瞬間に"他者"を発見する。
ただその発見があるからこそ、毎日が新鮮味に溢れている。
まだまだ知らないところがあるという奥ゆかしさ。
多からずとも、毎日知らない一面への出会いがある。
この新鮮味や奥ゆかしさこそ、私をシェアハウスに惹きつけている。
"他者"に存在する今まで知らなかった面はしばしば私の先入観を覆す。
コミュニケーションを重ねることで発見させられる、"自分"の一面が私の先入観を覆すことすらある。そんなときはドキッとする。
ところで、1人旅では必ず新たな出会いがある。今までに共通の文脈がない人がほとんどだ。旅の醍醐味はまさにそこだと思った。
だから大袈裟に言えば、シェアハウスに住む毎日は、"他者"や"自分"の知らない一面を巡る、小さな旅のような日々なのかもしれない。
まだ今は1人旅の旅路途中。
明日も明後日もこの先も、旅は続くよ、どこまでも。