ハウリング・オブ・デーモン 3

 北村の死亡を改めて確認した憂日は、102号を後にして、本来の目的地103号室へと入った。
 少し待てば外の警官達が殺到するだろうが、まだ人質の町田ののかは見つかっていないし、彼としても確かめる仕事が残っていた。
 103号室の扉を開けた瞬間、憂日も口元を抑えてしまう。
 昨今の暑さからだろうが、すでに死臭に腐敗臭が混ざっている。よく今日まで誤魔化せられた物だ。
 103号はまさに血の海であり、裸の若い女性達の死体が乱雑に転がっている。
 よくないサークル関係者達だろう。
 ざっと視線でなぞる。
 北村は凶人に転化したばかりだ、女性達の体……柔らかい頬、腹や腿に、直に食らいちぎった噛み跡が残っている。
 慎重に呼吸しながら、103号室を進む。
 ダイニングの大型液晶テレビの前にある、何に使うか邪な想像が出来る大きなベッドの横にも、死体を見つけた。  
 他とは違う。

 数人の女性が絡まった状態で、針金により固定されていた。

 女同士が抱き合っている風にして作られた、人間製の椅子のようだ。 
「あー、そうなるかー」
 憂日は舌打ちをすると、捜査用の白い手袋を嵌める。キッチンへと向かい、ぴかぴかとしたステンレスの大型冷蔵庫を開けた。
 うぃーん、と冷蔵庫のモーターが回っている。

 中身は、数本のビールの缶と……人間の腿と二の腕がぎっしりと詰め込まれていた。

「……面倒だなー」
 彼は呟いて、冷蔵庫を閉める。
「乃木警部、大至急鑑識を急行させてください」
 マイクに囁くと、すぐに乃木警部は返事をする。
『何があった?』
「嫌な展開になりそうです、ここには……」

 くちゃくちゃ、とどこからか音がするのに気付いたのは、その時だ。

『どうした?』との乃木警部の質問に答えず、憂日はショルダーホルスターからCZ75を抜く。そして氷の上でも歩くような足取りで音の出所へと向かった。
 音はベッドルームからだった。
 あるいは警官を待って……と一瞬考えたが、毒を食らうならばの精神で、ベッドルームの木扉を押し開いた。
 銃を構える。
 憂日は停止した。
 大きな窓の前で彼に背を向け、少女が座っていた。
 薄い青色のワンピース姿の小柄な人物が、確かに生きて動いている。
 人質が無事だった。
 本来なら歓喜する場面だろうが、憂日は違和感を覚えていた。
 胸中に不快な暗雲が立ちこめる。

「町田……ののか、ちゃん?」

 憂日は声が震えないよう苦心しながら、問いかける。
 少女が振り向いた。
 憂日の魂が冷え固まる。
 彼女はどうやら傷一つないようだ。この地獄の中で生き延びたのだ。
 ただ……。

 ののかは何かをしっかりと両手で抱えていた、そして憂日をぼんやりとした目つきで眺めながら、それを口元に持って行く。

 人間の腕だ。

 ののかは切断された大人の腕の、手首と肘の部分を持ち、血まみれの唇を押しつけた。
 小さな歯が食い込み、皮膚がびりりと伸び、赤い筋繊維が食いちぎられる。
 ののかはそれを租借し、飲み込む。

『……見ていますか?』
 憂日は凍り付いた気配を無線から感じながら、マイクに語る。
『町田ののかは『伝染』していました。これから『処理』をします』
 無線から誰かの呻きが聞こえた。
 だが敢えて構わず、憂日は九歳の女の子のきょとんとした顔を狙い、引き金を引いた。

 きっかり二発受け、ばたりとののかが横に倒れる。

 憂日は強烈な意志で、先程の授業で分からなかった二次関数の難題を思い浮かべた。頭の中で必死に解く。
 警官隊は数十秒後到着し、彼らの姿を目にした憂日は、踵を返してばたばたと駆け出す。
 他人の家だが構わずトイレに飛び込むと、白い便器に向かって胃の中の何もかもをぶちまけた。
 運が悪い。食事前だ。
 激しく痛み熱く荒れる食道に苦しみながら、憂日は胃液をしばらく吐き続けた。

 九歳の女の子を射殺した。

 だが相手は『伝染』した『凶人』だ。

 もう手の施しようはなかった。
 アメリカや欧州等、あらゆる国の最先端の研究でも、『凶人』と転化した者は、元の人間の思考には戻れない。

 だがまだ九歳だ。九歳だった!

 憂日は、巡る電光のような思考の中で、ぼんやり確信した。
 どうやら今日の昼と、明日の朝、昼……もしかして夜の食事の心配はいらないようだ。
 食費は浮き、必要はないがダイエットになる……眠れない時間は、学校の課題に充てられる。

 ──いい事ずくめだよ。

 そう思わなければ、自分に向かって九ミリの弾丸を消費しそうだった。

 憂日が最悪な気分でマンションから出ると、白々しい光の下、警官隊が野次馬達を解散させていた。

 まだこの場所では捜査が続く。誰も彼らに構ってはいられないのだ。
 憂日にはもうどうでもいい。ほとんど反射的に、骨伝導イヤホンとマイクを引ったくるように外した。
 それどころではない。まだ鉛のように重たくなりつつざわめく胃について、考えなければならない。
 心理カウンセラーの元でメンタル・ケアを受けるべきなのかもしれない。

 ののかの顔が、弾けた瞬間が、まだ脳裏に張り付いている。

 刑事達が無線機に何か怒鳴っているが、憂日は他人事のように白熱する夏の道路を歩いた。 見覚えのある黒い車が停車しており、見覚えのあるダークスーツの長身の人物が、寄りかかっていたからだ。
 憂日はその覆面パトカーに急いだ。

「おつかれさま……やはり、俺が行くべきだったなあ」
 腕を組んで待っていた伊伏は、警視庁一と噂されている美貌に、やや苦みを滲ませていた。
「いや、これくらいこの仕事をしていれば当然です……まあ、自動的にダイエットになり、しばらく長い夜の時間の潰し方について考えないといけない塩梅ですけれど」
「お前の判断は間違ってない。凶人に伝染したあの女の子は、お前が処理しなければ別の犠牲者を出していた。殺しを未然に防いだんだ」
 ちゃんとボディ・カメラの映像は確認したようだ。
 憂日は何か言おうとしたが、その前に、「これを使ってください」と背後から声をかけられる。
 振り向くと武藤刑事だった。
 彼女の目は愁いを帯び、つつけば泣き出しそうな表情をしている。知っているのだろう。

 子供を殺した、と。

「ありがとう」
 憂日は無神経に徹して受け取ると口元、まだ吐瀉物の滓が残っている部分を拭き取った。
「で、現場を見た『特務処理』官の感想は?」
「よかったですよ、伊伏さん。北村が転化直後で……あいつは、自分の嗜好の変化に正気を失っていました。乃木警部は確かに少し無理をしましたが、あと一日北村を放っていたら、本来の自制心を取り戻し、普通の市民の顔をした『凶人』になって、街にデビューを果たしていたでしょう。その前、欲望と野生の習性で動く獣の間に、処理できました」
「そうかあ……」伊伏が遠くを見る目つきになる。恐らく乃木警部の姿を探しているのだろう。
「だが、乃木警部の警察官としてのキャリアは終わった。相手が凶人と割れた時点で捜査第一課長に報告するべきだった……いや、何にしろ犠牲が多すぎる。本庁に椅子が残っているかどうか……この事件の特捜本部の管理官、宮内さんもただじゃ済まない」
「でも、しばらくは必要です。凶人の恐ろしさを心底知っている捜査員が」
「やっぱり伝染か?」
「はい、転化したばかりの北村は、ただ人間の肉の柔らかい部分に食らいつくだけでしょうが、そうじゃない二つの痕跡がありました」
「えっ、それって……」無言で聞いていた武藤刑事の声が掠れる。

「クラフトマンとクックです。」

 不意に憂日は太陽の日差しの強さに気づいた。
 もはや例年の風物詩となったが、東京の夏は暑い、暑すぎる。日光が痛覚さえも刺激する。
 だがなのに彼は凍える。体の芯から、がたがたと寒さに震えた。
「ええ、と……くらふと、くっく……」
 武藤刑事が必死に状況を理解しようと耳を傾けていて、伊伏が答えてくれる。

「凶人に転化した者は、年を経ると社会性を身に着け、趣味を楽しむようになる。当然、人間とは全く異質のそれだ。クラフトマンとは、人体を使ってオブジェや家具などを制作する凶人。クックは生で喰っていた人肉を、美味く調理する考えに及んだ凶人だ」
「そんな……」息も絶え絶えの様子の武藤刑事に、伊伏は構わない。
「そうだ、北村以外あのマンションに少なくとも二人、凶人が出入りしていた事になる。クラフトマンとクック、両方の習性を併せ持つ者は、これまでいなかったからなあ」
「そう考えるのなら、町田ののかが短期間に転化した理由も頷ける。つまり思考伝染を起こす手本が、何人も前から身近にいたんですよ」
 憂日がまだ痛みのワードである少女の名前を無理に口にすると、伊伏は頷く。
「森永さんの捜査によると、北村の交友範囲は広かったらしい。そちらからの伝染をも考慮しなければならない。思考伝染の拡散を防ぐ……もう四年前の足立区の二の舞はごめんだからなあ」
 ギリシャ彫刻のように整った伊伏の顔に、硬質な笑みが浮かんだ。
「つまり事件解決ならず、だ。どうする? 俺としてはお前がここで一休みするのも構わないと思うがなあ。エーゲ海やらの海辺で数か月ほど日光浴だ。自然と太陽は一番人の心を癒してくれる……凶人を追いすぎて精神と人生を終わらせた処理官は何十人と見て来た」
 そう言う伊伏も、精神に瑕疵を負った者特有の、紙のような白い顔色をしている。 
「やりますよ……あの子に伝染させた化け物を仕留めないと」

 ──俺の目的は詩織だが、このままじゃ俺の精神は持たない。町田ののかの仇は取る。ぜったいに。

#創作大賞2024 #漫画原作部門

いいなと思ったら応援しよう!