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熱中、冷却、懐古―ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」に見る人間心理の三局面
長年読み続けられている作品
全国の中学1年生の多くは、1月~2月頃に「少年の日の思い出」を学習します。この作品は、私が中学生だったときの教科書にも載っていました。調べていくと、光村図書出版の中学生用教科書に初掲載されたのは、なんと1955(昭和30)年度版だそうです。(光村図書出版公式サイトのダウンロード資料「光村図書の国語」参照)
これだけ長い間教科書に載り続け、たくさんの日本人に読まれた作品は、なかなかないでしょう。そして、それだけ長い間教科書に掲載され続けるということは、それだけ魅力のある作品だと言うことができます。
「少年の日の思い出」は、前半部分と後半部分に分かれています。全国各地の授業では、「僕」と「エーミール」のやり取りが描かれている後半部分に多くの時間が割かれているのでしょう。もちろん、テストに出やすいのもまた後半部分です。
私の授業でも、これまで前半部分は一度音読を聞いてもらう程度でそれ以上の解説はほとんどしたことがありませんでした。そして、私自身、はっきり言って前半部分はきちんと読んだことがありませんでした。
今回、私は初めて前半部分をじっくりと読みました。そして、「前半もなかなか面白い!」と強く感じました。
人の心は変わるもの
物語の読み方の基本は、登場人物を確認し、その登場人物たちの心の変化を読み取っていくことです。人の心は変わるものです。「少年の日の思い出」の「僕」も、「走れメロス」のメロスやディオニスも、「羅生門」の下人も、みんな心が変化していきます。人の心は変化する―それを私たちは物語を通して学び、現実世界でもそれを痛感するものです。
「少年の日の思い出」の「僕」の場合、エーミールがクジャクヤママユを持っていることを知った「僕」は「興奮」します。そして、「せめて例のちょうを見たい」と思うのですが、「紙切れを取りのけたい」「この宝を手に入れたい」と危険な思いはどんどんエスカレートし、盗みを犯した「僕」は「大きな満足感」を覚えるわけです。
しかし、そんな危ない感情はどんどん変化していきますね。
このように、後半部分に描かれているのは、「僕」がちょう集めに熱中するようになってからその熱情が冷却するまでの顚末ですね。では、その後の「僕」はどんな気持ちになっていたのか……それが描かれているのが前半部分です。
「少年の日の思い出」は前半部分も面白い!
後半部分における「僕」は、前半部分では「客」とか「友人」と書かれています。前半部分は、「客」(=「私」の友人=後半部分の「僕」)と「私」のやり取りが描かれています。後半部分は、現在の日本なら小学生ぐらいの時期の話ですが、前半部分では二人とも喫煙していますし、「私」には子供もいるので、二人は二十代もしくは三十代ぐらいなのかなと思われます。つまり、「僕」がちょう集めをやめてから十年以上は経過していると考えられます。
「私」は、友人に次のようなことを言います。
「子供ができてから、自分の幼年時代のいろいろの習慣や楽しみ事が、またよみがえってきたよ。それどころか、一年前から、僕はまた、ちょう集めをやっているよ。お目にかけようか。」
このように、古(いにしえ)、つまり昔を懐かしむことを「懐古」(あるいは「懐旧」)と言います。時を経て、一度は冷めてしまった熱情が再燃しているのです。
「私」の場合は、おそらくちょう集めに関して悪い思い出がないから、ちょう集めを再開したのでしょう。
私(髙江)がとても面白いなぁと思ったのは、「私」の言葉に対する友人の反応です。友人は、「見せてほしい」と「私」に頼むのです。
この部分を読んだとき、私は思わず、「あ、見ちゃうんだ……」とつぶやいてしまいました。友人は、かつて指で粉々に押しつぶすほど嫌悪した「ちょう集め」に対し、ある程度の懐かしさを覚えていると言えるでしょう。この友人の姿もまた「懐古」と言えるわけです。
友人は素直にこう言っています。
「妙なものだ。ちょうを見るくらい、幼年時代の思い出を強くそそられるものはない。僕は、小さい少年の頃、熱情的な収集家だったものだ。」
この後、友人は「もう、結構。」と言いながらも、エーミールとの思い出を語り始めるわけです。
言うまでもなく、友人にとってちょう集めは非常に不愉快な思い出です。それにもかかわらず、時が経てばその不快感がある程度は和らいでいるという点が、この物語の面白さの一つだと思います。大人になった今でもちょう集めがあのときと同じくらい大嫌いだったら、「見せてほしい」とも言わないでしょうし、思い出を語る気にもならないでしょう。
後半部分でも、友人(後半では「僕」)は、大人になった現在の気持ちを語っています。
今でも、美しいちょうを見ると、おりおり、あの熱情が身にしみて感じられる。そういう場合、僕はしばしの間、子供だけが感じることのできる、あのなんともいえない、むさぼるような、うっとりした感じに襲われる。少年の頃、初めてキアゲハにしのび寄った、あのとき味わった気持ちだ。また、そういう場合、僕は、すぐに幼い日の無数の瞬間を思い浮かべるのだ。
この部分からも、「僕」はちょう集め、そして、ちょうそのものに対して、エーミールとのトラブルがあった当時ほどの嫌悪感はないのだろうと考えることができます。
このように、人はあるものに熱中し、いつしかその熱情は様々な理由で冷却し、けれども時を経て懐古の情が生まれる……そんな人間心理の三局面が巧みに描かれた作品が「少年の日の思い出」だと言えましょう。人の心はこれだけ変化する―だから人間は面白いし、難しいし、油断できないし、諦めてはいけない……「少年の日の思い出」を読み、私はそのように思ったのです。
【引用・参考文献】
・『国語1』(令和3年度版教科書)光村図書出版
※本文の引用は全てこの教科書からである。
・高橋健二訳『ヘッセ全集2』新潮社、1982年