「たい」と「べき」の一致
テレビを見ていたら、長生きするための食生活が紹介されていた。
こういう番組、昔からずっとある。
ある程度の年齢以上の人であれば、月曜日から金曜日まで、サングラスをかけた人の番組の裏で放送されていた番組を、よく覚えているだろう。
フリップを使って、付箋をはがしながら、毎日毎日、健康の秘訣を紹介していた。
長期休暇になれば、私もときどき浮気して、サングラスの人の番組じゃないほうを見ていた。
「これを食べれば長生きできますよ」と言われて、それをそのとおりに食べる人は、どのくらいいるのだろう。まぁ、三日坊主が多いのではないか。
要するに、長生きしている人は、「食べたいもの」と「食べるべきもの」が一致しているのだ。
「食べるべきもの」をいくら紹介されても、それが「食べたいもの」でない人は、それを食べない。
「食べたいもの」が「食べるべきもの」ではなかったとしても、食べたくないものより食べたいものを食べたい人は、今後も「食べるべきではない食べたいもの」を食べ続けるだろう。
何が正解で、何が不正解なのか。
簡単に答えは出せない。
一つだけ言えることは、幸福な人は「たい」と「べき」が一致しているということだ。
例えば、本当に幸せそうな生徒にとって、「勉強」という「やるべきこと」は、同時に「やりたいこと」でもある。いやいやながら勉強している人と、生き生きと勉強している人は、やっぱり見ていて違う。
それなら、「勉強」という多くの人にとってただめんどくさいだけのことを、いかにして「やりたいこと」にしていくか?
まぁ、全教科が「やりたいこと」だという人は、なかなかいないだろう。
私も、体育は本当に無理だった。
例えば、台上前転。
視力が落ちてきて、跳び箱が2つに見えて、イチかバチかで跳び込んだ跳び箱は、ハズレ。
あのときの一人パイルドライバーは、本当に痛かった。
そして、他の人が4段とか5段を軽々と跳んでいる中、自分だけはかまぼこみたいな1段の跳び箱で担任の先生と個人レッスン。何度跳んでも、「キミのは台上前転ではなくて、跳び箱の上で転がってるだけだ」と言われた。ロイター板で勢いをつけて回転しないと、台上前転とは言えないらしい。
私は、基本的には、「知っといて損はないかなぁ」という気持ちで、幅広く学んできたつもりだ。
世の中には知らないほうがいいこともあるのだろう。
でも、学校で習う内容は、知らないほうがいいことではないだろう。知っとけばどっかで役に立つのかも……ということばかりだ。
だから、とりあえず従順に勉強してきた。
そして、気が付いたら黒板に背を向ける職に就いていた。
今までの人生で知ったことが、全部話のネタになる。
体育のイヤな思い出も、時を経て鉄板ネタになってくれた。
何でも知っといたほうがお得だよ。