「本の虫、言語思考者、人の指」(2024/04/18)
6:43
ふと、小学生の頃本に埋もれて眠っていたのを思い出した。眠る直前まで電気もついていない部屋でスマホのライトを頼りに本を読み、寝落ちしてを繰り返していた頃。母に何度もダニが湧くからと怒られた。
ぬいぐるみに半分ほど敷地を取られた部屋で思い出した。私は小さい頃、本の虫だった。
8:36
今日さすがに顔面が高クオリティでびっくりした。
12:45
よく一緒にいるグループで2つに分かれてくつろいでいた。一方のグループはカードゲームをして、もう一方は自由に過ごしていた。私は自由に過ごす方で絵を描いたりラジオを聴いたりしていた。集中をしていたので、完全に周りを遮断していたのだが、知らない間にカードゲームに知らない人が参加していた。最悪だ。私は知らない人が大っ嫌いだ。気が付いた瞬間体の表面温度が上がる感じがする。違うな、服が熱く感じるので、むしろ皮膚の温度は下がっているのだろう。声が聞こえるだけで嫌だ。お腹痛くなってきた。
14:03
三限を受けていて不意にその講義を行っている先生に言われたことを思い出して、気分が悪くなった(ここでは機嫌が悪い方の意味)ので授業を少し抜けた。
1年の前期、授業内で「もし保護者の方に『先生方は一日中子どもと遊ぶだけでお金が貰えていいですね』とイヤミを言われたらどう答える?」という質問について班でディスカッションしていた時、私はお互いのことを理解し合う意味で「普段行っている子供と関わる以外の業務について話す」と話していた。正直自分たちが将来就く職業に対する侮辱で、私たちはムカついて強い言い方をしていたと思う。それを横から聞いていた先生が少し話を聞いたところで「え〜藤雷さん怖い!私が保護者だったら絶対に藤雷さんみたいな先生がいるような園に子ども預けたくない!(要約)」と言ってきたのだ。その後、先生は自らが出した問いの答えも告げずまま授業を進めた。
私はこの発言をたまに思い出しては、この先生への不信感を勝手に募らせる。私の考えを否定するならまだいい所を、私の存在自体を否定したのだ。教育者・保育者として以前に人間としてそうあるべきでは無いと思う。
15:06
大学から帰る車でゆる言語学ラジオを聴いていて、自分は思考をイラストでするタイプの人間(ラジオ内では視覚思考者、もしくは本の言葉を参照してビジュアル・シンカーと言われていた)だと思っていた。しかし、ラジオの内容などについて考える時、また上に書かれた日記の内容についても考える時は全て言葉だった。よく考えれば、絵を描く際もこういう絵を描きたい、というのを全て言葉に起こし、その後延長線としてイラスト化している。また人に何かを伝える時にも図やイラストを多用するが、それはその方が理解しやすいからであって実際に自分で思考する時は全て文字で行っている。
なるほどな、と思ってその動画のコメント欄を見ていると、視覚思考者の人が小説の登場人物の外見を理解、考えることが出来るのに驚いたという言語思考者の話を見て、おや?と思った。私もそれは分かる。小説の中での登場人物を整理する時、1度脳内でキャラクターデザインを起こしている。これについてまた考えてみると、私は今までの漫画・小説で出てきた登場人物達とその文章で説明される人物像を重ねて容姿を考えているのだと思う。では、結局私は言語思考と視覚思考どちらが優位なのか。なのか、なのか……。
15:39
労働というのは自己を承認できる、人間の欲求に訴えかける1種の薬のようなものである。これをしていれば(ここにいれば)自分は必要とされる、給料が得られる、社会的に認められた人間であると感じられることから社会的欲求と承認欲求のふたつが満たされ、働くことに能動的な意義を覚える。またそれと同時にここにいなければ自分は社会的意義がない、これを辞めてしまえばダメな人間であるというそれが無ければ自分を認められない依存状態に陥る。職業によっては肉体的損傷を伴うこともある。
この点において労働は
23:23
ドライフルーツって人の指食べてるみたいで嫌だわ。
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