6 会社自体が社長を選べない ~経営方針の転換が過激?~①
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くどいようですが、フィクションです。
前回は、あまり考えずに、ひたすら案件をこなしていく人が引き上げられていくとお話しました。ちょっと、サブタイトルと内容がミスマッチだったかもしれませんが、「何も考えずに、ひたすら作業をしていく」というところに、「盲従」という言葉を充てたかってのですが、少し無理があったかもしれません。
そして、今回が本当の盲従かもしれません。
(1) 首長とは何なのか。
「首長」って何?って思っている人も多いのではないでしょうか。一般的には、「しゅちょう」と読んで、地方公共団体を統べる人、つまり、都道府県なら知事、市なら市長、町なら町長、村なら村長のことをいいます。業界人は「くびちょう」などと言ったりします。
前回の記事の最後に、この首長に起因して、職員の「盲従」に拍車がかかっていると言いました。これは、七側県だけでなくて、多分、全国の地方公共団体に当てはまるのではないでしょうか。
「首長」とは、改めていうと、都道府県や市町村を代表する人で、議会との対比で、首長を執行機関、議会を議決機関といっています。国も内閣(及び各省庁)が執行機関、国会が議決機関ですが、国では、執行機関の長、つまり、内閣総理大臣は、国会、すなわち議決機関から選ばれています。これに対して、地方公共団体の首長は、直接、住民の選挙で選ばれます。
釈迦に説法ですが、国は、三権分立を実現するため、立法、司法、行政の三つに別れており、このうち、国民が直接意思表示をできる機会があるのは、立法府である国会の構成員たる国会議員の選挙と、最高裁判所裁判官の国民審査です。行政府については、立法府である国会(衆議院)で選出された内閣総理大臣のほか、国会議員を中心に、内閣が構成されます。つまり、行政府の長を国民は直接選ぶことができないのです。これは、議院内閣制と言われています。内閣支持率が何かにつけて話題になりますが、実は、直接的に、内閣総理大臣の選任に影響を及ぼすわけではありません。
一方で、地方公共団体は、大統領制と呼ばれています。行政府(執行機関)の長である首長は、直接、住民の選挙で選ばれます。
国は、行政府の長は、国会、政党あるいは政党間の力学で、誰がなるのか決まって行きます。一方、地方公共団体の首長は、選挙で選出されるため、多くの投票を獲得できる者ではないと、当選できません。
選挙で選ばれるのですから、普通に考えれば、首長の候補者間の政策論争、つまり政策の良し悪しで、住民の投票行動が決まるべきだと思います。しかし、結論から言うと、象徴的な事案(新しい市民活動拠点を整備するとかしないとか、広大な公園を整備するとかしないとか)を除けば、ほぼ、誰がなっても一緒です。
最初の方の記事から一貫して申し上げているのですが、行政の制度設計を担うのは国です。つまり、どんなに理屈をこねて頑張ろうが、都道府県や市町村は、法令や補助要綱等の規定を無視して、好きなように仕事をやっていいということにはなり得ないのです。したがって、大半の仕事は、多少の凸凹はあるものの、誰がなっても大差なしいうことになります。
ただし、特定のイベントを開催するのか、特定の施設を整備するのか、など、象徴的な個別の問題は争点になり得ます。
東京都では、昔、世界都市博という博覧会を、東京湾の埋立地で行うこととしていました。埋立地だから、水道、電気、下水や道路などインフラの整備ができていませんでした。博覧会を開催するには、これらを整備をせざるをえません。このため、イベントの開催経費の一部でこうしたインフラを整備して、そのインフラを、湾岸地域の都市基盤として使おうとしたのです。こうすれば、都が独自で整備するより、費用が安くすみます。
ところが、この都市博覧会に反対だと言って、都知事選挙告示日直前に、立候補を表明した人かいるのです。しかも、全く選挙運動はせずに自宅にいると言った人、そう、青島幸雄氏です。
この時の都民の方々の心情はあまりよくわかならいですが、この博覧会の計画が持ち上がったのは1988年頃で、バブル頂点前夜のとき。世の中のみんなが、イケイケどんどんだった頃です。しかし、開催予定は、その10年後で、バブルが弾けて、失われた10年の真っ只中であったため、こんな不景気の時代に博覧会なんて、お祭り気分じゃないってことだったのかもしれません。ちなみに東京都の方から、世界都市博のキーホルダーなど、ノベルティグッズをいっぱいもらって記憶があります。そのまま取っておいたら、結構、プレミアムがついててたりして。
結局、選挙の結果は、都民の方々の気持ちが投票行動にも現れ、現職で博覧会推進派の鈴木都知事を破り、作家として有名だった、青島氏が当選します。
このように、特定のイベントや、もしくは箱物の整備を巡って、選挙の争点となることはあっても、それ以外の政策で差別化が図られ、候補者に優劣がつけられるということは、ほぼないのです。
このため、住民の方々は、景気が安定している時期は、いわゆるザイアンス効果で、見慣れた人が首長になるのがいいと思ってしまうのです。皆さんも、風邪を引いた時、薬屋さんに行って、市販の薬を買おうとした時に、全く見たことも聞いたこともない製薬メーカーの風邪薬と、テレビで四六時中コマーシャルをやっいて、耳にタコができるぐらい、名前を聞いたことのある薬と、どちらを選びますか?見知らぬ製薬メーカーの方が仮に効いたとしても、なかなか買う勇気が出ず、聞きなれている風邪薬に何となく安心感を感じて、そちらを買いませんか。
首長の選挙も同じです。昔は大阪府では横山ノック氏、少し前までは橋本弁護士、東京都でも、小池百合子氏や、宮崎県では東国原氏など、有名どころが出ると、当選していく構造になっています。
世の中が不安定だと、現職批判や、改革や革新性を求めて、変わった候補者を選ぶことが多いのですが、そうでなければ、基本は、知っている人、安心する人を選ぶというのが、スタンダードだと思います。だから、各党も、地方行政に精通しているかどうかではなく、票が取れそうかどうかで候補者を決めるのです。
この結果、地方行政に携わったことのない、この業界には不案内な方が、立候補することになる。七側県でも、それまでは地方行政など、全く関係なかった”桃色”知事が、政党からの推薦を受け、綺羅星のごとく登場し、当選しました。
つまり、そもそも住民の方が都道府県の行政に関心がない上に、誰がなっても大差なく、地方行政の素人の方がなられます。この素人の方の勘違いが甚だしいとそれこそ悲劇になります。
その悲劇の物語は次の記事で。
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