生にしがみついた捻くれ者が歌う、世界、人類へのラブソング――VSSW夢追翔2nd Album『拝啓、匣庭の中より』に寄せて
2019年夏。
『人より上手に』を聴いて、歌詞を読んだ時のことを今もまだ鮮明に覚えている——とは全く言わないんですが、この曲で受けた衝撃だけは漠然と覚えています。
先日(2023年5月17日)、バーチャルシンガーソングライター(以下VSSW)”夢追翔”さんの初めての物理媒体にあたる楽譜が発売されました。紙面で彼の曲についてあれこれ眺めるのは新鮮で、なんとなくの喜びもありました。なにかあっても存在ごと消えてしまうことのない媒体が手元にある、という安心感でしょうか。ひとりのアーティストとして彼が生きている証に触れられたから、というのもあるかもしれません。
そんな感動と、ここ最近(2023年5月末現在)のSNS事情から、”夢追翔”というアーティストの活動から自分は何を感じているのか、何を考えたのか、ここらで一回纏めてみようと思ったので今回筆を執ってみました。
この記事の前提条件ですが、できるだけ”アーティストの夢追翔”、”VSSW夢追翔”の活動のみに絞って言及しようと思ったので、youtubeでの配信活動(曲について言及しているものも含む)、メンバーシップ・ファンクラブなどの限定コンテンツ(会報を含む)から得られる情報は可能な限り全てシャットアウトし、”歌詞”、”音”、”曲調”、”MV”のみを根拠に楽曲についての解釈を書いています。それらのコンテンツに触れた瞬間に自分が感じた印象などは刷り込まれている可能性があり、解釈に一部影響している可能性を完全に排除ができていないこと、また、ルーツをたどる項目のみ、配信で述べられた内容を一部引用しています。それらの点についてはご了承ください。
〇筆者について
(読み飛ばしても大丈夫です)
基本的には歌うひとと喋るひとが好きな人間です。
夢追翔さんのメンバーシップ、ファンクラブ(プレミアム)に加入済み、配信はだいたい見ています。ただ、追っ翔けと名乗るのは個人の宗教上の理由(大袈裟な物言いですが要するに個別のファンネームを名乗るのが苦手なだけです)で控えており、代わりにゆるめのにじさんじ箱推しと自称しています。
専門分野としては精神医学と脳科学をほんのちょっとかじったことがある程度の人間です。音楽面としては吹奏楽とピアノもほんとに少しかじった程度。素人に毛が生えたとも言えないくらいのレベルです。強いて言うなら初音ミクが発売された当初(2007年)からボカロに触れている程度のゆるめの距離感の古参という感じでしょうか。邦ロックその他もろもろのジャンルも含め、広く浅くというスタンスです。
文章面としては、云年前に論文をちらっと書いたことがある程度、かつ現在進行形で文字の創作活動をしているとはいえ生業とはしておらず、根本的に素人の物書きです。
なので纏まりもなく読みにくさもあると思いますが、そのへんはご了承いただけますと幸いです。ああこんな風に考えてるやつもいるんだなぁくらいの温い目で読んでもらえるとhappyになります。
では以下より。
〇作風について
彼が発信する”音楽”の特徴は、端的に表すと
多様な音楽ジャンルに載せて自分が届けたい生き様や言葉を綴る
ことだと思っています。
実際2ndアルバムの概要にも書いてありますね(ちなみに概要は全て彼本人が書いているそうです)。でもちょっと強調したい特徴だなと思ったので改めて、こちらについて話すところから始めたいと思います。
2ndアルバム一枚、9曲だけを取ってもエレクトロスウィング、シンフォニックロック、フォーク、ハウスミュージックなどジャンルが多岐に渡っているのがイントロだけを流し聞くだけでもわかります。
ただ、それらの曲調に乗る歌詞は一貫して、彼が書いたとわかる、世俗的に言えば「暗い」「闇を感じる」ような鬱屈した言葉や雰囲気を纏ったもので統一されている、という明らかな特徴があります。上述の”目を背けたくなるような後ろ暗い感情”がこれに当たると思います。
言い換えると、前向きで明るい応援ソングや一般的に認識されるような幸福な日々、恋愛に纏わる感情の動きなどを歌うものはほぼなく、諦めや自責、苦しみを中心とした負の感情と、積み重なったそれらの隙間から光を見つけるような歌詞を、彼はほとんど飾らないストレートな言葉で紡いでいます。だから、人によっては全く共感できず、人によっては自分の中で膿んだままの生傷を触れられたような痛みを感じ、はたまたその痛みを言語化されたことで肯定されたような気持ちになることもあるかもしれない、と思っています。
(こういう特有の人に刺さるコンテンツって得てしてコアなファンを作りやすい、という傾向も目にしたことがあります)
さて、じゃあアルバムそれぞれの特性としてはどうでしょうか。
1stアルバムはいわゆるキャラクターソングめいた、私小説のような、”夢追翔”と思われる彼自身の生き様を歌う曲が主で、『ミタサレナイトガール』『大嫌いだ』などの彼ではない他者の生き様たる個対個の恋愛模様を歌ったものは異色でした。ただ、いずれも内向的な詩、自分から自分へ向けた詩が多かったように思います。
一方で、2ndアルバムでは私小説めいた詩は鳴りを潜めて、彼から彼以外の世界・人類へ、不定の個人から目の前にいる誰かへ向けた、もしくは他者の存在を意識した外向的なメッセージへと変化していました。これは、ばらばらに紡がれていったものを纏めた1stとは異なり、2ndアルバムは一曲目を作る時点からアルバム全体のテーマが定まっていたらしいのも大きな理由かもしれません。
ただいずれの場合でも、漠然とした表現にはなりますが、個人的に共通している視点が二つある、と思ってます。
ひとつは、反骨精神と生への渇望。
世界はどうしようもなくて、自分だってどうしようもない存在だ。でも、どうあったって今、生きている。息を続けている以上はそのままで終ってやるものか、という下から睨みつけるような鋭く熱い視線。
自分より優れた存在はいくらでもいる、自分が生きている意味は本当にあるのか。そんな疑問を原動力に、自分だけにできることを探して、探している様すらも削り出して歌っている。生にしがみついてもがいているありのままの姿を見せることを躊躇わないのが彼です。
もうひとつは、諦観を帯びた世界や数多の他人への愛。
愛にもいろいろある。恋愛だけが愛じゃあない。赦すことも愛だ。
こんなどうしようもない世界は何をしても変わらない。この世界は僕を愛して祝福なんてしてくれない。でもここで生きていくしかないし、この世界には目を逸らしたくなるほどの愛おしいものも存在している。仕方ないから、そういうもんだって受け入れて赦して、僕は今もこうやって生きている。じゃあ、この姿を見てあなたはどうする?という、聞き手にその受け止め方を委ねることで受け取った人間の自由をも尊重する、というかたちの愛。
祈りや祝福であると同時に、呪いにも聞こえる愛の言葉は誰か一人のために歌われたものではなく、いっそ自分のために紡がれた言葉だからこその力があるように思います。
自分が抱いている感情を直視するのはどうしようもなく苦しいのに、向き合えば向き合うほど目を逸らしたくなるくらい苦しいのに、結局は戻ってきてしまう。やめられない。自分には結局これしかない。誰かのためじゃなく、自分のためにこれを続けるしかない。
そして、どうしようもなく愛してしまっているからこそ素直に認めるのも癪で、あえて否定するような言葉も使ってみる。
そんな天邪鬼な捻くれものの愛の歌が、”夢追翔”というアーティストの歌だとおもっています。
〇音楽のルーツと彼の曲調について
ここらで一旦、彼の曲について、音楽的な目線で簡単に分析を。
上述の通り専門家ではないので誤った使い方をしている単語があってもほどよく目を瞑るかこっそり教えてください。
彼自身の音楽のルーツとして、わかりやすいもの、既知のものはざっと上げるとこんな感じかと。詳しくは非公式wikiの好きなアーティストの項目とか見ていただけるともっと書かれていると思います。
・邦ロック:amazarashi、BUMP OF CHICKEN、米津玄師、RADWIMPS、大森靖子など(高音メイン歌唱の観点ではL’Arc-en Ciel、[Alexandros]、ELLEGARDENなども)
・ボカロ音楽(おそらく2008年代から)
・物語音楽:Sound Horizon、少女病
特に物語音楽、Sound Horizonについては作曲をしようというきっかけになったとご本人が語っていたことがあったと記憶しています。一つのテーマをもとに様々な曲調で楽曲を紡ぐ特色は、現在のアルバムなどの構成にも大きく影響を受けているんだろうな、と勝手ながら推測しております。
曲調については、三連符、付点などの変則リズム、物理的に弾く・歌うことを想定していないコード進行など、アコースティックギター一本で曲を作ったり楽譜やコード譜を用いたアナログな作曲とはまた一線を画すDTM特有の曲調で、ボーカロイド世代の作曲家の傾向とも比較的合致しているな、と。DTM自体が、彼がそもそも楽器を弾けないからこその手段なので、この傾向を見るに、ボカロ世代の裾野の広がりによって作曲の世界に飛び込めた一人なんだな、と思えますね。
曲調や音作り、構成はインスパイア先がそれぞれの曲に存在していて、そのうちにフックとなるメロディを乗せていくのが彼の作曲スタイルだな、と。メインのメロディに加えて裏旋律がたびたびはっきり聞こえるのも、記憶に残りやすい音をたくさん付与している工夫が伺えます。
使う楽器もいわゆるバンドサウンドに加えてグロッケンシュピール・シンセサイザーなど広義で括ると鍵盤の音が混ぜてあるのも面白いなと思います。高音の澄んだ音色はいろんな表情を作るので、それも意図してたりするんでしょうか。単純に音色のバリエーションが欲しいだけの可能性もありますが。
また、最新曲になるにつれて、ここ数年の音楽シーンに合わせたイントロのない曲が増えていて(MVありの曲が特にそう、逆にアルバム限定の曲はイントロが長め)、世間の流行へのアンテナも高く理論的に分析しながら変化していっている傾向がはっきり見えるなと思ったりもします。変わらないことだけでは足りず、変化し続けることが長く生存するために必要なのは、生物の生存戦略と同じですね。
〇歌詞について
上でも書きましたが、どの曲の歌詞も基本的に捻った比喩表現はここ数年流行りの曲と比べるとかなり少ないです。
むしろ、かなりストレートな言葉と表現を使っているからこそ、文面をそのまま受け取ると結構ぎょっとされがちな内容かなと思います。なんならこの人大丈夫? 死なん? とすら思われそうな。もともと内容的に、わりと生命としての死が身近にある感じがするので、聴いてて不安になる人もいそうだな、と思います。
ただ、その詩を書いてる人間はかなりの捻くれ者っぽいので、強い言葉を使っている場合、ほとんどの確率でその逆のことを最も伝えたい感じがするんですね。反語です反語。〜いわんやなんたらみたいな、強調したいときに使う文法表現。
なのでまぁ、ど正面に突きつけられた文言の裏を汲み取る、行間を読む、なんて現代文か!? という行為がテーマを汲み取るためには必要なんですけど、使ってる言葉が素直な分わりとわかりやすく作ってくれているな、とも思います。
口語要約チャレンジ
ここまでなんかしっかりめに語ってきてそろそろ肩の力が抜けてきたので、ここらでざっくり適当に2ndアルバムの曲を口語で要約してみたらどうなるかチャレンジをします。
現時点で歌詞だけ見て書いてるので意訳どころの話じゃないですが、ぜんぶ主観なので許してください。後ほどこういうテーマの曲かなっていうのも書きますね。(1stアルバムはまた機会があったらやります。具体的に言うと次の楽曲が発表されたら、とかなんかそんなきっかけがあれば)
1.おそろいの地獄だね
自分なんかダメだって否定する癖って直んない、もういっそ痛いな辛いなって思わないようにしちゃったほうが楽かなって思ったのにそれじゃあダメみたい。なんかそれだけでも地獄なのに、名前も名乗らないで正義面して好き勝手言う人間がいっぱいいる世界ってだけでもっと地獄じゃない? ねえ聞いてる? 僕も君もみーんな加害者、知らないふりしたって見逃してもらえないよ。でもまあ、先が見えない苦しい世界を一人で生きるのも辛いし、同じような人間同士、一緒に生きられたらちょっとは楽かもね。どう思う?
2.Stop the Internet
どいつもこいつもみんな同じ、自己承認欲求の塊! 全然中途半端なまんまぐちぐち言ってないで自分のことは自分で面倒見なよ! それでもやっぱ寂しいんだったらさ、一回SNSから離れて、自分がやりたいこと探して、もっともっと突き詰めてやって見るのはどう? 僕はほら、そんなこと続けてみたら意外と悪くない景色が見えたよ。大丈夫、どうせインターネットは最悪で最高のステージなんだからさ!
3.天に唾吐く
燃えちゃった。炎上しちゃった。世の中みんなカスばっか、自由だ正義だって掲げればなんでも言っていいと思ってる。まともなのって私だけなんじゃないの。こんな世界ならもう死んじゃったほうが楽かもしれないってくらい辛いよ、神様助けて、……なんて言ってもだぁれも助けてくれないんだから。自分のしたこと、生きてきた道、自分の命。屑だって罵られただけで全部なかったことにしたらそれでおしまいなんだから、じゃあそれなら他人の声なんて聞かない、聞こえない。私のことまだ終わりになんてしない。
4.君の好きな僕
君が僕のこと好きになってくれて本当に嬉しかったのに、君が具体的に好きなとこを言ってくれるたび、そうじゃなくなった時が怖くて臆病になっちゃう。だって聞いてたらさ、君は君に夢中になってる僕のことは好きじゃなさそうじゃない? あーあ、知ってたのにさ、君が好きでしょうがないって気持ちが抑えられなくなっちゃったらきっとフラれちゃうなぁ。最後まで君が好きな僕でいられるように頑張るからさ、ダメになっちゃうまではそばにいるのを許してね。
5.人間じゃないよな
初めてたくさん褒めてもらえて嬉しかった。嬉しかったの。でもなんだか違和感があるの。ねぇあなた、私の声聞こえてる? もしかしてあなた、私のことじゃなくてあなたの思い通りに振る舞うあたしが好きなのかしら? でもそんなところも許してあげる、しょうがないからあなたの理想のお人形になってあげる。自分より弱くて自分の思い通りになる子しか好きになれないあなたのこと、私だけは愛してずっと一緒にいてあげるから。
6.音楽なんざクソくらえ
音楽ってほんとさいあく! 僕の作った歌はめちゃくちゃサイコーなはずなのに世間は見向きもしないし、あれこれ頭使って売り出してもちょっとボロが出たらぶっ叩かれるし、そもそも音楽なんかでお腹は膨れないし! でもそんな状況ひっくり返したいなら命かけてやるしかないしそもそもあたしには音楽しかないし! はーさいあく! ほらそこのあんたも聞いてよ! 気に入ったら一緒に歌ってよ!
7.どうせ生きるなら
なんか気づいたら大人になっちゃってたね、見ないふりしてきたこと、考えないといけないな。ずっと思ってたんだ、生まれて来たからにはさ、幸せになりたいって。
やりたいこともやってみたいこともちゃんと見つけるのって大変だし、ずっと続けるのも大変だし。お前なんかがって言われそうで怖かったから避けてたけど、歌ってみたかった愛の歌、僕が救われたような歌を歌ってもいいかな、いい? そっか。
どうやったらなれるのかも、どこにあるかもわかんないけど、きっと人生全部かけて頑張ったら、幸せになれるかな。なれるように生きていきたいな。
8.共感性終止
また怖くて死ねなかった。流行りの曲なんて嫌いなのに、ねぇまってこの曲もしかして私のことじゃない? 一度出会っちゃったらもう夢中、そうそう、その通りなの、なんでわかるの? 神様みたい!
でもなんかよく聴いてたら同じようなことばっかり、また不安になってきちゃった。あれじゃないこれじゃない、こっちの曲かも! あれ、これって私が考えてたこと? それともだれかの言葉?何にもわかんなくなっちゃったから助けてほしいのに、そんな不安もなにもかも見なかったことにしろって言うし、いっそもう死んじゃえって囁いてる。うそ。いやだ、まだ死にたくない! 本当の私の気持ちってもしかしてこれなんじゃないの。救ってくれる神様なんてやっぱりいないんだ。自分で自分を救うために声を上げなきゃ。
9.命に価値はないのだから
聞こえてるかな。調子はどう? うるさくて嫌なことばっかりの世界にたまたま生まれ落ちちゃったと思うけど、どうかな、大丈夫そう? 何でもかんでも比べて優劣つけたがるのってほんと嫌だよね、そのままでいいはずなのにね。
こんな世界でボロボロのままやりたくないこともしないと立ってられない僕はそろそろ限界だけど、これが聞こえた人はこうならないでほしいなぁ。最期の最後までせめてそうやって祈っておくからさ、何にもできなくっても生きてていいんだから、この声が聞こえたあなたは幸せでいてほしいな。
ざっと9曲分纏めるとこんな感じでしょうか。
口語で短めに纏めたのでところどころたぶん足りないところとか解釈違いもあるかと思うんですが、まぁだいたい捉えられているんじゃないかと。
で、ここからはMVの上がっているものは概要欄の文字情報も含めてテーマを軽く紐解いてみたいと思います。
〇楽曲についてくわしく考える
2ndアルバムはそもそも彼曰く
だそうなので、このアルバムの曲はすべて、匣庭=つまり彼がいる世界を見ているひと、インターネットを介して彼を見ている者、見ていなくともインターネットのある世界に生きている全ての人へ向けた歌だと言えそうです。
では、個別に考えてみましょう。
1.おそろいの地獄だね
世間一般で認識されるラブソングを想像して聴くと面食らうかもしれません。この曲こそ、まさに地獄みたいな世界とそこに生きる人間への諦観を帯びた愛を歌っている曲の代表みたいなものだと思ってます。
英名の「In the same inferno」は「同じ穴のムジナ」という慣用句です。
(※同じ穴の貉 とは:”一見別なように見えても、実は同類であることのたとえ。基本的に否定的な意味で使う”)
何を指しているかというと、おそらくは”僕”も”お前”も”あなた”も例外なく同じ世界、地獄ともいえるこの世界に生きている存在で、違うように見えてもそこに差異はないということかと思います。箱庭の外にいる人間に向けた宣戦布告なんて歌いながら早速同じ場所、箱庭の内側に引きずり込んできているわけですが……。
で、この曲に戻ると、ざっくり言えば、匿名社会をいいことに際限ない誹謗中傷が飛び交う世界(最近では法的処理が為されるようになってきましたが……)を指して地獄だと評しているのかなと。
そこで己を殺して生きていくことを苦行と呼んだうえで、泣いても笑っても行き着く先は同じなんだからじゃあ一緒に生きていけたらいいかもね、と自分と同じように生きている人間に対して優しさを見せているように思えます。”あなた”と”お前”、と二人称が変わっているのは、不特定多数の誰かではなく、だれかひとりに対して語り掛けているとも取れます。その相手に対しては自分の身を削る苦しみを負ったとしても自分と同じような苦痛を味わってほしくない、もしくは苦痛を軽減させたい思いがあるのかもしれません。届くかもわからない、という意味では祈りにも近いかもしれませんね。古代の時代から、音楽は祈りを捧げるためにも用いられていましたから。
2.Stop the Internet
夏のドライブで聴きたいような爽やかで駆け抜ける音色に載せて紡がれているのは、簡単に言うと"インターネットって最低で最高だよな!やめらんねーよ!"みたいなインターネットへの愛憎をまるごと詰め込んだ詩でしょうか。
ここで言うインターネットはおそらく"Twitter"、もう少し広く言うと"SNS"。まぁ140字、ってワードが頻繁に出てくるので十中八九Twitterでしょう。「薄めた繋がり」はほとんど深い交流のないたくさんのフォローフォロワー、「鍵かけた部屋」は非公開アカウント。
SNS社会で同調圧力に自覚的無自覚的に流されるまま人と似たようなことしかせずにいると、他者依存の肯定感を維持するのは大変です。だっていつ発信したものに反応がもらえなくなるかわからないし、当然似たようなことをしてる人はごまんといるわけです。自分より秀でた人だっていくらでもいるでしょう。
それが辛くて病んじゃうくらいなら一回ちょっと離れて、自分だけのもの、自分が本当にやりたいことを見つけた方が楽しく生きられる、自己依存の肯定感が自分を少し楽にしてくれるかもしれないよと決して楽なことばかりではなかった自分の経験から語っているように思います。
「自問自答 理想依存からいつ目覚めるの?」という表現からは、できない理由、やらない理由を高い理想に求めてばかりじゃ変わらない、なんて思いも感じられます。ハードルを勝手に高くしてるのは自分じゃない? というと、わりと耳が痛いところです。
脱線しますが、この曲の中に出てくる、「自分を救う力はお前の中」というワードが個人的にはめちゃくちゃ好きです。
神様に縋るのは心の拠り所としてはありだけど、蜘蛛の糸の逸話ほどの介入すら現実にはありえるはずもなく、神様は直接救ってくれるわけじゃあない。ならなぜ宗教が今の世に至るまで廃れずに存在しているかというと、まぁいろんな意味があると思うんですけど、今回取り上げたような側面だと、一時的に依存して気持ちを楽にして、顔を上げられるくらいになったら自分の頭でこの先どうしようか、と考える余裕をつくるためかなと。(※100%個人の意見です)
依存性自律という言葉もありまして、一つに依存しきっているとそれが崩れちゃったときにもうにっちもさっちも行かなくなってしまうけど、頼る先、縋る先がたくさんあると実は一個一個への依存度が減って、どれかが崩れても意外とダメージを受けない、ないしは負う傷を少し減らせるという考えですね。少しだけ意味は違いますが、自分以外の誰かからの反応だけに寄りかかってると自我を維持するのは大変なので、自分で自分を保つ術はないかと考えてみるのもいいかもね、だからSNSにこだわらないで広い世界の中のちっぽけな自分を見つめ直すのもいいかもよ、なんてメッセージが含まれてたらいいなと個人的に思います。おかしいな、いつの間に願望の話に……?
3.天に唾吐く
MVがないのでこの曲は完全に曲そのものに頼った解釈しかできません。限られた情報から考えると、この曲は些細な事(本人・他者からの認識問わず)炎上した渦中にいる人が自分の部屋(ないしは自分の殻)に閉じこもってあれこれ考えてる曲かな、と思います。
青い鳥は幸せの象徴。それが飛び立ったと思ってるってことは幸せじゃなくなってどん詰まってしまったということ。そして、自分を今貶めているまともじゃないメディアが言うことなんてまぁ信じられないと。真っ当だけどその実自分以外の全部を拒絶して閉じこもっている状態って感じでしょうか。
炎上からの人格否定、誹謗中傷ってなかなか苛烈ですよね。強い言葉を使えば使うほどそれが別の誰かの強い言葉を呼んで悪化するというか。正義棒で悪者と認定したひとを攻撃するのって気持ちいんですよ。頭使わなくていいですしね。悪者は倒していい、って偏った認識があるので。正義と正義のぶつかり合いならまだしも、一対多で数の暴力したら勝ち目なんてありません。で、一度否定し始めたひとってなかなかその鉾も引っ込めない。相手が人間であることも忘れて潰れるまでぶっ叩いたあとの責任も取らない。だからまぁ、それを向けられた先にいる人間が、いっそ自殺企図するまで追い詰められても知りもしないと。ただこの曲の場合は、それで追い詰められるままでいて堪るか、って前を向こうとし直してる、立ち直ろうとしている準備段階の感情を歌っているのかな、と思うと周囲を拒絶しているような言葉も納得ですよね。
たぶんこの歌で書かれているひと(誰か、は仮定もしません) は、すぐに頼れる身近な人もいないか、頼ってはいけないと思っているかのどちらかでしょう。真面目そうな感じもするので後者の可能性も高そうかな。
ちなみに気持ちを追い詰められて自殺企図まがいのことまでし始めているなら確実に自分以外の他者に助けを求めたほうがいいです。こればかりはさすがに言い切りたい。真面目なひとほど誰にも頼れず思いつめて考えるのをやめられなくなるので、措置入院なんて制度ですべてのストレス因子から物理的に離れさせることもあるくらいですから。
ただまぁ、この曲の中のひとはその必要もなさそうに思えます。自分で顔を上げようとしている最中なので、危うくともきっと手は下ろせるでしょう。知りませんけども。
4.君の好きな僕
これもMVがないので歌詞からのみの情報で考えてみます。
余計な情報をひとつも入れなければ、少し引っ掛かる表現(「解釈違いで冷めた目」など)もあれど、臆病な僕がフラれてしまうのを怖がって、けれど相手のことを愛しているからそれも受け入れている曲という感じがします。始めに大きく括ったもので言うと、まったくの他人の生き様、個体個の恋愛感情を描いている曲に該当しそうです。
きっと先に好きになったのは”僕”の方なんでしょう。そこから両想いになれて嬉しかったはずなのに、~~なところが好き、とあれこれ具体的に例を挙げて好きだと言われることが増えた。たぶん相手に悪気はない。ただ、じゃあもしもそうじゃなくなったら嫌われちゃうのかな、それは辛いなと思って頑張って振舞ってみるけど、おそらく空回ってしまって、だんだん気まずくなってしまう。どうにかしたいと思って必死になるほど悪化して……って、恋愛以外でもあることですよね。
ただこの曲の”僕”の場合、できるだけ最後まで相手が自分に求めている理想の通りに振舞おうとしているのがわかります。どうして自分の気持ちまで押し殺してそうするのかと言われれば、相手を愛しているからに他ならないと思います。ただ、愛しているからこそ、相手が離れたいと言ったならその通りにしよう、とすべてを受け入れているような、ほとんど諦めてしまっているような感じもします。
対話って大事ですよね。恋人は対等であれとは言いませんが(どんな関係のかたちも人それぞれ愛のかたちなので)、すれ違っているような気がしたら、そこでいったん立ち止まって不安な気持ち、本当の臆病な自分を伝えられたら、この歌の中の二人は何か変わったのかどうか。もしかするともっと早く関係が崩れてしまったかもしれませんが。
さてこの曲ですが、実は初めて聴いたときにもう一通りの解釈が浮かんでいました。
”Vtuber”、ないしは”アイドル”、自分の存在を商品とする生き方をする人間の歌ではないか、と。
この解釈はこの解釈で引っかかる単語があるんですが(「電話越しに君が笑う」とか)、結構それっぽく聞こえてしまうんですよね。
求められる理想に応えようとし続けるあまり崩れていって、でも本当の自分も見てほしくて、好き勝手に離れていくファンのことも最後まで愛している”人間”の曲。
Vtuberないしはアイドル、はたまたいろんな作品に出てくる登場人物に対して「解釈一致」「解釈違い」と言った感想が飛び交うようになったのっていつからでしょう。この場合の”解釈”という単語は言動や振舞い、考え方なんかを指していることが多いと思います。生い立ちなんかも入るかもしれません。
想像していた通りの情報や行動が見えると喜ぶ。それが解釈一致という状況です。解釈違いは(古のインターネットミームで言えば「飛影はそんなこと言わない」)その逆で、思ってたんと違う、となってひどいときは勝手に幻滅するような状態。
これが二次元のキャラクターに対して言っているなら(作者に直接言うのは全く違う意味を持つので、”キャラクター”のみに限定します)まだいいです。意志を持って自ら思考している、本来は自分と同じ”人間”に対して言うとどうなるでしょう。言う方は無邪気なものです。だって与えられる情報を口開けて待って食べたら騒ぐだけですから。
言われた方はどうでしょうか。最初は自分のことを知ってほしい、見てほしいからとあれこれ話す、ないしはやりたいことをあれこれやっていたら褒められたりもてはやされていた。ただそのうちに一度、自分の思いや考えを伝えてみたら、そんなこと言うと思ってなかった、求めてなかったと勝手に引かれてしまったことがあった。それが結構なショックで、どうにか信頼を取り戻したくて必死になったら余計に空回ってしまったとしたらどうでしょう。また別の”君”に手放しで好きだと言われてもだんだん信じられなくなるでしょうし、どうせいつかまた見放されるんじゃないかと諦めた目で見てしまうかもしれません。ただ諦めて開き直ってしまったら商売にならないから、求められる姿であろうとする。解釈違いになるまで、ぼろが出るまで、できるだけ長く好きでいてくれますように、なんて諦め交じりの祈りの歌にも聞こえてくるわけです。
こっちの解釈はだいぶ意訳も意訳だなぁと思うので蛇足ですが、これを踏まえたうえで次の曲を聴くと地獄だな……と思います。
5.人間じゃないよな
糸でぐるぐるに縛られた壊れかけのお人形(not操り人形)がMVの曲ですね。
この曲は単純に言葉から拾っていくと、愛してあげているのは果たしてどちらか、赦すこともまた愛だと受け取れるなぁと。
空っぽだった人形が愛されたことを喜んだのに、求められているのは従順なだけの存在で自分じゃなくてもよかった。はじめはそれが嫌だったし、自分は自分でいたかったけど、すべてが上手く行かなくなる前に割り切ってしまおう。かたちだけでも私を愛してくれたあなたのことを私も愛しているから、だから理想を押し付けるならその通りに振舞ってあげる。付き合ってあげる。そんな深くて重い愛の歌だと思っています。
前の曲は、理想を押し付けられること、それを叶え続けられないことに苦しんでいる弱さが見える歌でしたが、こちらは逆に、ひどく強かな感じがします。
いろいろあったけど最終的に理想を強要されること、望まれる通りに振舞うことも受け入れている。自分のことを見ていてくれる限りは、という制限の下で。かなり強いですよね。制御していると思ったら制御されているって怖いですよ。だって自覚ないんですもん、手綱手放していることに。いつ落馬するかわかんないってことです。まぁ少なくとも、この曲の”人形”の子はそんな相手のことをよく見ていて、愛しているから命を落とすような落馬事故は起きないでしょうけど。
曲ごとに余談せんと気が済まんのかって感じなんですが、またひとつ。愛に飢える、愛を与える、それぞれの性格特性を持っているひとの違いって、自己肯定感の程度だと思っています。個人的には。
例外はたまにありますが、自己肯定感が高い人は人に愛を与えることに躊躇いがない場合が多いです。どうしてかというと、家族や身近な人から愛されて育った、過度に自分を否定されるような失敗体験を経てこなかった、あるいはそれをばねに成功体験を得ることができた人間は、確固たる自我を持っていることが多いから、というのがあります。アイデンティティが確立できていて、自分と他者との境界が明確にあるから、相手を認める——愛したとしても自分が揺らぐことが少ないから、と考えています。
この曲の”人形”の子の場合、空っぽだったところに愛を与えられて自我が芽生えた。一瞬はその自我を認めてほしかったけど、愛を与えてくれた”あなた”のことを愛しているからそっと胸のうちに閉じ込めた。けれどその自我がなかったことにはなっていないので、おそらくは確立されたアイデンティティ、自分の意思の下で従順な”人形”であることを続けようとしている。度が過ぎると愛して赦してあげている自分に酔っている、みたいなナルシズムになりそうですけど、そこまで行くと深読みが過ぎるので止めておきましょう。
ちなみに他の曲でも似たような表現がありますが、自分より劣っている存在がいると思うことで自我を保つ、安心しようとするのは自覚的、無自覚的どちらとしてもかなり頻発する事象です。底を見ることで自分はまだあれよりましだと思う、優越感を保つ。存在価値があると疑わないために思考を止める。いわゆる優性思考ですね。本当に庇護すべき弱い存在(乳児とか、庇護しなければと本能的に思わせる造りをしている存在)を守ることとは意味が違います。この曲の”あなた”に関しては自分より優れた存在と向き合うことは劣等感が刺激されるから忌避しているか、そもそも”ごっこ遊び”に傾倒することで他の思考から逃げているかは知りませんが、いずれにせよかたちとして歪んでいても二人が互いに満たされているならこれもひとつの”愛”の形としていいのかもしれません。共依存は身を滅ぼさない範囲で……。
6.音楽なんざクソくらえ
これはもう余計な言葉はいらないでしょう。
”夢追翔”と思しき人物の生き様を自ら描いた、確固たる私小説の曲です。MVもほぼご本人ですね。
”夢追翔”と思しき”僕”は前述のとおり捻くれものです。強い言葉で言い切っている場合は、その逆を言いたい。つまり、音楽を心の底から愛している。だからこそ生まれた歌だと思います。
個人的には、1stアルバムの『死にたくないから生きている』から続いていると勘繰りたくなる表現があります。(今回は割愛してましたが、こちらの曲も”夢追翔”の確固たる私小説、決意と祈りの歌だと思っています)
ただ、これらの表現は類似こそしてますが変化もかなりしています。意志が強くなっている、と思うんですね。決意を固めて歩んできた先で紡がれた言葉と言いますか。
音楽だけで生きていきたい。そんな夢を掲げて走ってきても、世界に溢れた音楽は一瞬の流行り廃りの中で淘汰されている現実が待っていた。命を削って書いて、弄っても、誰からも返事がない。直接も間接的にも腹も膨れない。けど、自分はこれで死ぬまで生きるしかない。
ただ流石にまずいから、売れるようにあれこれ頭を使って少し順調に進んだように見えたけど、見せかけの取り繕いはすぐに崩れて意味もない。
表層しか見ないような人間も、変なところに頭を使わなきゃいけない現実も、こんなバカみたいな生き方しかできない自分も全部クソだけど、それを死ぬまで突き詰めたらその先で違う景色が見えるかもしれない。だからこの歌が聞こえたんなら僕についてこい。
そんなこれまでを振り返って、悪態をついて、でもやっぱり生き方を変えられない不器用で天邪鬼な男が選んだ”音楽”への賛歌なんじゃあないかと、何度聴いてもやっぱり思います。
アウトロがフェードアウトなのもこう、道がまだ続いていく感じがして、死ぬだ生きるだ言ってますがまだまだ終わるつもりがなさそうな気がしていいなぁと思ってます。
7.どうせ生きるなら
こちらもMVのない曲なので、曲に含まれている情報から考えてみます。
曲としての特徴としては、一番の終わりまではほぼアコギ一本の静かでシンプルなサウンド、二番以降では視界が開けたように音色が増えるところにあります。この構成は最近の音楽事情やこのアルバム内の曲と比べると逆に尖っている感じがしますね。
歌詞に関しては、前の曲と同じで、わりと私小説めいた内容です。ただその一方で、静かな内省から始まって、その内省から得た決意を目の前にいる誰かに語りかけることで改めて噛みしめている。他者の存在はあってもどこまでも自己完結していて、人を巻き込もうとはしていない。そんな印象を受けます。
細かいところを見ると、1トラック前の曲と同様に1stアルバムの曲『カケル』と地続きな表現が気になります。
こうして並べてみると、”歌いたかった”と思うだけでできていなかった現状を嘆いて、それでも足掻いて一歩踏み出そうとしていたのが、過去を振り返りながら”でもやっぱりやってみたい”と前向きな思いを語れるまでに変化したのかな、と推測すると少し胸熱ですよね。
平凡非凡関わらずどんな経験をしてきたとしても、そのひとを形作るのはその人が辿ってきた道筋だと思っています。見てきたもの、聴いたもの、感じたこと、やってきたこと、やりたかったこと。こんな人になりたい、こうありたい、反対に、こんな人にはなりたくない、など。目に見えるものだけじゃなく、抱いた理想や夢なんかの指標もそのひとを体現しているでしょう。
夢や理想を語ることは誰にでもできます。ただ、それを馬鹿馬鹿しいと笑われたり、おこがましい、できるわけがないと否定されるリスクもついて回ります。この曲では、これまでの曲のように他者と比べる文言は含まれていません。ただ、そんな風に誰かに否定される可能性があることも承知したうえで、ただただ過去の自分と対話をして、未来を見るため、進むためにもう一度己の指標を確かめている。まだ具体的なビジョンは見えていないけど、かつての自分が憧れたものになろうと頑張りたい。その中に幸せがあるかもしれないなら、人生を賭けてもいい。そんな新しい決意の歌なのかもしれません。
さて、また余談から始まりますがご勘弁。
これは同意が得られる人と、全く意味がわからない人で二分されると思うんですが、世の中には30歳になるまでに死んでいるか、漠然と生きていないだろうなと思って過ごしている人間がわりといます。これは勝手な推測ですが(割とそれに近いことは話していたことがありましたが)、”夢追翔”さんもおそらくはその手の人間だったかと思います。
別に家庭環境や生育歴に大きな問題があったとか、心身を病んだとかでもなくても、ただ漠然と、その年齢以降で生きて生活を営んでいる様が想像できない。人生にはいくつかステージや節目があって、~20歳、ないしは一般的な大卒から就職までは目まぐるしく変わっていた世界が、それよりあとはぷつりと変化が減っていきます。順当に結婚して子供を産んで……とかになればまた新たなステージが訪れるわけですが、そうでない場合はかなりの時間、平坦な道を進むことになります。
将来もわからない、不安なことしか世情では聞こえてこない世界をただただ毎日過ごしていく。それが続くのが厭だなと思ったり、ないしはそんな中で自分みたいな人間がどうやって生きているんだ?と。そう漠然と思うからこそ、30歳になるまでに死んでいる、死んでいたい、との思いが芽生えるのかもしれません。
ただ、そんな思いとは裏腹に、じわじわと年月は過ぎて行って、30歳が近づいてきてもさっぱり死ねる気配がない。これはどうしたことだ。いざ30歳になってもやっぱりまだ変わらずに生きている。息をしている。生き延びてしまっている。これは計算外だ。この先のことなんて考えてなかった。死んでしまって人生を終えることを諦めないといけないかもしれない。じゃあ、これからどうしようか。
そうなってくるともう、その先ってある意味では余生に近いのかもしれません。第二、第三の人生の始まりと言ってもいいかもしれない。そう割り切ってみると不思議なことに見える世界も少し変わって、少しずつ開き直っても来れて、死ぬ前にじゃあせっかくだからやりたいことやってみようか。なんて希望が自然と抱けるようになるかもしれない。なってきたのかもしれない。
この曲は、割とそんな諦めから始まって、未来への希望をほんの少し見出しはじめた歌なのかもしれません。そうだったらいいな、と勝手ながら思います。ちなみに私は2ndアルバムではこの曲がいちばん好きです。
8.共感性終止
いちばん歌詞がわかりにくい!!! 最近流行りのおしゃれ曲って感じ!!! ……なんて投げっぱなしにしないでさっくり考えてみます。
曲がもう不安を煽るマイナーコードに上り詰めるような畳みかけの転調転調で不安定な人間そのものって感じがしてよいですね。警報サイレンが鳴ってるのも余計に不安を煽ってます。
アウトロがフェードアウトで、音がぷっつり切れないところも、結局音楽や人の声は鳴りやまないのか、それともこの”僕”の物語はまだ終わらないことを指しているのか、これまた味わい深い。
あと、マーケティング目線で言うと、”共感性終止”という、昨今耳にすることが増えた”共感性羞恥”というワードと同じ韻で造った単語は、記憶にも残りやすいし疑問を生みやすい。どういう意味だ、と聴くとっかかりになりやすいわけです。キャッチーなサウンドがそのまま再生した人間の心を掴んだらいいという思惑がありそうでよく考えて作られている曲だな、と称賛するとまた皮肉めいて聞こえますが。
さて、じゃあどんな曲か、と言いますと、満たされない思いを埋めるために何かに依存した結果破滅しかけて、目を逸らしていた自分自身に気付けてぎりぎりで踏みとどまった曲。さっくり要約するとこんな曲に思えます。
常に満足することなんてできません。なんとなくそう知っていても不安の方が強くて、どうにかしてその不安から逃れようとする。そのための依存先を常に求めているうちに、何も見えなくなってしまう。自分で考えなくなってしまう。思考を止めてしまう。そんな誰かの言葉に共感するだけの生き方は”終わろう”、”止めよう”、という、これまた決意に近いものを、”僕”の生き様、変遷を経て表しているのかなと。
共感、というのは難しいものです。いろんな作品の考察が飛び交う現代ですが、その中で人の言葉に乗っかって同意するのは楽です。ただ、そうなると漠然とあった自分が感じたはずのもっと小さな気づきや感情を深く認識しようとすることも止めてしまう。それって、本当にそのまま蓋をしてしまっていいものだったのか。続けるうちにそんな疑問すら持たなくなってしまう。おそろしいことです。
そのうち、自分の意思じゃあないのに”このひとが言ってるから”と自分で自分の感情にも思考にも責任を持たずに発するようになってしまう、”このひとが言ってるから”じゃあ死んじゃってもいいのかもしれない。思考停止が行きつく先は、極限まで言えばそんな感じです。思考力を奪った末に自死を促す、誰かを殺す(生命・精神問わず)よう命じる、なんて事件も少なくないです。傍から見ると馬鹿馬鹿しい、なんでおかしいって気付かないんだと思えても、当事者としてはもうそれ以外の選択肢がなくなっているわけです。考えられなくなっているわけですから。
極端な話をしましたけど、ある程度の共感や補完のために他者の言葉を借りることは良くても、自分の命の責任は自分でとれるように、自分の頭で自分の人生を歩むことを止めるな。それを、この自殺未遂(たぶん未遂にもなってない前段階まで)を繰り返した末、人の言いなりで死んでたまるかと顔を上げたこの曲の”僕”を通して伝えているんじゃないかな、と思います。伝える、までいうとおこがましいかもしれませんが。結局はこんな生き様をしているひともいるかもしれないよ、と見せているというか。なんかそんな感じです。
ふわっとしてるな~と思った方、すみませんその通りです。あくまで自分が歌詞から感じたことから派生して考えただけで結構脱線してますので……今更なところありますが……。後一曲だけお付き合いください。
9.命に価値はないのだから
アルバムも締めに入りました。ラストです。
リリース当初、Twitterのハッシュタグが結構物議を醸していたこの曲ですが、確かにかなり衝撃的なタイトルですよね。彼の曲の中で一番ぎょっとするタイトルかもしれません。
サウンドとしてはかなり穏やかで、ストリングスも入ってメロディアスな感じ。曲調として近しいのは『人より上手に』ですが、それよりもっと多様な音に溢れていて奥行きが深く、閉じた自己内省ではなく色で溢れた世界の中で紡いだ手紙、という印象を受けます。
それで、この曲ってどういう曲なんだろう。歌詞を流し見すると、世界はどうしようもないくらいに醜いけど、すべて等しく存在価値はないかもしれないけど、だからこそそのままで生きていていいんだよ、というすべての生命への祈り、祝福の歌に思えます。
彼が強く断言している言葉は反対の主張がしたいことが多い、と定義したことを覚えていますでしょうか。今回もそれに該当しそうです。
”価値はない”と歌詞の中で言い切っているということはつまり、”どんな存在でも等しく価値がある”と伝えたい。そういう曲じゃないかと。
人間社会に生きている以上、どうしても自分とそれ以外で比較され続けることは避けられません。ひどい劣等感は身を亡ぼすこともあります。無意識に誰かを卑下して、傷つけることに加担していることもあります。そして、神様が救ってくれることもなければ、助けを求める声が誰かに拾ってもらえることも必ずしもない。だから自分を守るために、結局は醜い行為にその身を投じるしかなくなってしまう。
そんな経験をしてきたから、せめて”あなた”はそうならないでほしい。そうならずに”生きていてほしい”。何ができなかったとしても、ただそこで息を続けているだけで”価値がある”。それを知ってほしい。そんな祈りを感じます。
”幸せ”ってなんだろう。ある人にとっては家族や友人と一緒に笑い合うことかもしれない。長生きをすること、夢を叶えること、大金持ちになって欲しいものを全て手に入れることかもしれません。また、ある人にとっては、死ぬより辛い苦しみを死んで終わらせることが幸せなのかもしれません。その定義は様々です。
では、この曲で”僕”が歌う幸せってなんなんでしょう。言葉の通り、”僕”のようにならず、慈しむことを忘れず、美しいまま生きることが幸せなのでしょうか。そのまま受け取るのは少し違うような気もします。
少なくとも、何者にもなれなかったとしても、そのままそこに存在する、生命を続けていることをひとつ最低限の”幸せ”であるとしている気がします。割と身勝手な祈りですね。ただ存在を肯定するだけ、具体的に何も求めず、ただ息をしているだけである状態を肯定することでやっと苦痛や不安を拭える人がいることを思えば、この祈りが届くことでようやく救われるひとがいると彼も知っているのかもしれません。もしくは、彼自身がそうだったのかもしれない。
ただ、これを慈愛だなんだと言わず、身勝手と表現したのには理由があります。だって、そもそも”幸せ”は人によるものなので、願い押し付けられるとそれは本当にそのひとにとっての”幸せ”なのか?という疑問が出るので。これに関してはまぁ、最低限の”幸せ”すら見えなくなってしまっている人に向けた言葉だと思うので、ちょっと的外れですが。
身勝手と言った理由はもうひとつあります。
この曲の中では、”僕”は自分を”世界”と同じように醜いものだと称している、卑下している=比べさせようとしているとも取れますし、「返事をして」と言っているにも関わらず自分はもう限界だからと返事を待つ前に消える可能性すら示唆しているからです。すぐ傍にいる、心配しないで、という通り、この歌が、メロディが世界には残るからという風に汲み取れるのがまだ救いではありますが。まぁ、これに関しては、人ひとりの生き様を「不躾な日が差す場所」=「匣庭」=「インターネット」の中で死ぬまで見せようとしているからこそ出た言葉なのかな、とも思うので、それを身勝手というのはその通り、としか言えないのかもしれません。自己満足を見せつけることが意味を生む場合もあるので。
いやでも、これまでの曲でさんざんまだ死んでやらん、と生に執着している様を見せてきたくせになんやねんとちょっとばかり怒りたくもなります。ただ、その生き様をぜんぶ見せてくれること自体が聴き手への愛に他ならないと思えば、結びの曲で”終わり”をちらつかせる、宣戦布告を締めようとした気持ちもわからなくもないです。物事には常に終わりがつきものであるという現実への覚悟も持たせることもやさしさでしょうし、そしてなにより、さぁ僕のターンは終わりだ、これを聴いた君はどうするも自由だ。このアルバムを聴いた私はそう投げかけられているわけですから。
祈りは祝福であり、ある意味では呪いです。言葉の力は侮れません。彼自身の命を削りながら紡がれた言葉が、見知らぬ誰かにとっての不安や恐怖を駆り立てるだけで終わってしまわないように。大嫌いで大好きな、決して愛したとしても同じだけ自分を愛してはくれないけど、それすらも受け入れてそこで生き続けることを選んだ、そんな残酷な世界にいるすべての存在へ、彼が紡いだ愛が届くよう願いたくなる。そんな曲でした。
〇”夢追翔”という人間について
思ったより長文になってしまったのでこんなところまで読んでる人いないんじゃないでしょうか。もしいらっしゃったら本当にありがとうございます。全然鵜呑みにしないでくださいね、ここまでの話。全部私の主観以上のものはないので。あなたが感じたことが全てです。
さて、ここからは音楽の話から少し離れて、今までとこれからの彼に関する個人の所感をつらつらと述べて終わりにしたいと思います。
私が”夢追翔”さんのことを認識して見始めたのは2019年夏以降です。なので根拠もなく憶測ばかりの表現になりますが、彼はきっと、活動初期はかなり孤独だったんじゃないかと思うんです。友人はいたと思いますが、一方的に助けてくれるばかりが友人ではありません。もしくは情けなく困窮した様を見られたくないなんてプライドがあったら弱音を吐くこともできなかったでしょう。割とどんな人間でもそうです。弱ってる姿を見せるのって本当に勇気がいることですから。
ただ、活動を続けるなかで変化していった彼の周りには、いつ声を交わしても変わらない距離で話してくれる友人や同僚が増えたように思います。それに、進む先の道が地獄であると知ってなお、そういう色でやりたいんだと揺るがない意志をもって進む彼を見守る人間も少なからずいるでしょう。
纏めるとたぶん、活動を始めたときと比べるとまわり全てが敵ではなくなった、敵だと思わなくて良くなった。それだけでも違う上に、技術ありきから始まったかもしれなくても、その技術や努力を見て、感じて、評価して、手放しで彼自身に信頼を向けてくれる人がいるという事実はきっと少なからず彼の支えになっているんじゃないでしょうか。その証拠と言いますか、自分や周囲をかなり冷静に見つめて、自分の心身を第一に、配慮したいものへも十分に気を配って活動できるようになっているように思います。
追加して言うと、過去の彼が苦手としていた自己プロデュース(特に容姿面)や、あまり好きではないと言っていたMIXなどを外部に丸投げできるようになった、という心的負荷もかなり減らせている状況はかなり好ましいな、と思います。これは彼だけでなく所属事務所が大きく変化したことで得られた利点なので、事務所がある、事務所に所属している限りは揺らがないだろう安心感もあります。
自己プロデュース、苦手そうでしたよね。とても。今でこそかなり評価されていますが。たぶん、どんな自分が求められているか、どこまでが好まれるのか、どこまで自分を出しても赦されるのか、そもそも自分には何ができて何ができないのか。そのラインの見極めが経験を重ねてできるようになった、自分の判断に自信が持てるようになったのかな、と思っています。
ただそうはいっても、彼個人のこだわりや性癖(この使い方、実は誤用だったらしいですね)はどちらかというと内面、性格や言動に向きがちで、容姿に頓着が薄い、優先度が低いのは変わっていなさそうなので、上述の通り、苦手なものに割くリソースを減らせるようになって良かったなと思います。
あとは、収入面も活動初期に比べるとたぶんかなり安定したのかな、とも思うので(ファンの母数が増えたほかにも、下世話な話ですがハードル低めの内容で定期コンテンツとしてほぼ確立したファンクラブは本人としても変な罪悪感を抱かずに享受できる収入源ですよね)。先立つものがある安心感って結構すごいですよ。逆に言うとなければないほどひどく心的に切迫するんですけど……。切迫していると思考に余裕がなくなって正しい判断ができなくなりがちなので、そこが安定したのも大きいなと思います。
なので、本人の変化のほかにも、いろいろと変化した環境の甲斐もあって、一時期より彼の生命の危機を心配しなくても済むようになったなぁと勝手に安心しています。まぁ、命を削る生き方(作詞活動に限らず)ではあるので、いわゆる健康寿命とどう合致するかなんて長い未来のことはわかりませんが。
せめて、彼がこれから先できるだけ長い時を、彼が思う幸せを感じながら過ごして、夢をいくつも叶えながら、最期まで生を全うしてくれたら。それがたとえ我々の見えるところでも、見えないところであっても。
そんな勝手な祈りを結びとして終わりたいと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。5度目の6/28を超えた先に続く彼がまたどんな顔を見せてくれるのか、楽しみですね。