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うつで実家のベッドから離れれなかった私の今、田舎町で一人暮らし1日7時間働けている話
今日は今うつで苦しんでいる人に向けて、またはそのご家族に向けて、
うつの寛解(回復)の話をしたいと思います。
私がうつだったのは1年間。
うつってのは境目が難しくて、高校生からうつっぽい症状は始まっていました。1日普通の学生生活を過ごすと、家に帰ってぐったりして、宿題をなんとかして次の日鬱鬱と学校に行く。低血圧で早起きもとっても苦手で、文字通りフラフラなまま登校していました。
いま、うつを認めた私だったら、選択的不登校をしていたと思います。
それくらい、無理をして生きてきました。
「みんなしているから」「当たり前のことだから」となかば諦め、もちろん両親もそれを望んでいて普通に会社員になる、というところまで普通の道を歩んでほしいとおもっていたはずです。
そして社会人になってこころ・からだが壊れました。
トイレ・と食事以外、なにもしなく、できなくなりました。
病院に通いながら1年たって、なんとか一人暮らしを再開し、今は7時間週5で働いています。それでも、精一杯の状態なので完治したとは思っていません。辛さに涙を流すことも多く、睡眠導入剤をよく飲みます。
それでも、実家のベッドで泣き崩れていた頃は、生きることへのエネルギーが湧かず、今のように生活できているなんて夢にもみませんでした。
今がとっても幸せ、とはいいません。うつと隣り合わせだけどなんとか生きている。そこまでの道のりを長々とお話ししたいと思います。
それが今悩んでいる人が休んだり、自分らしいペースで生きるヒントになったらいいなと願っています。
うつの原因
小学生に3つ行くという転勤族だった。県外移動で九州から関東まで移動した。1地域に1年半しかいなかったりと、目まぐるしい生活だった。友達と離れて方言や文化の違うところに行くこと、子供会などで馴染めないけど土日まで友達と仲良くしないといけないこと、転校生ということでどこにいても目立ってしまったり、ひそひそまわりから噂されること。
小学生だった当時はただ耐えてたけど、それがつらかったということに今気づいた。それを先生や両親に相談できる状況じゃなかったのも拍車を掛けた。両親自身が環境の変化に近所づきあいなどでストレスが溜まっており、その余裕のなさが子どもの私に伝わっていた。
それが中学生になって、少し不良としてあらわれた。
授業をさぼったり、ベランダのふちで足ぶらぶらして落ちてみよっかなと思ったり。男女関係などでもんだいを起こして、悪目立ちしようと思ったり。
先生を困らせるいたずらを仕組んだりもした。
うつになったとき
高校生になって、勉強に没頭して悪いことをしなくなった。
3年間我慢して結果を出して自分の承認欲求を満たそうという方向性に変わったからだ。希望通りの大学に入って一人暮らしを始めた。
自由で好きなことをたくさんした。海外や国内で旅行にいきまくって、
恋愛でも遊んでいた。4年間の中でも希死観念にとらわれることが3か月に1回くらいあって、よく近しい男性に慰めてもらっていた。
どうしようもなく、自分をよく思ってくれる人に頼るしかなかった。
それが、正しい関係でなかったとしても。
留学を目指して勉強は変わらずがんばり、留学の切符を得た。そしてコロナでいけなくなった。直前の注射まで打ってからのことだった。ショックだったけど、そのまま就職に切り替えないといけなくて頑張った。弱音を吐かずにそうするしかない、と決めた。
自分で決めたからには大手に就職して、見栄を張ろうとした。だけど、思うようにいかずインターンシップと本番の面接を合わせると50社くらいはエントリーしたと思う。一応希望の中の会社に受かって就職した。
うつになって思ったこと
4月の研修は東京で行われ、1か月間ホテルステイとなった。
1日8時間の研修は、私を壊していった。今まで大学時代は家で過ごす時間も長かったので、毎日出社するということがつらくてたまらなかった。
もう体力は残っていなくて、本当はこの時期から仕事をせずに自宅でぼーっと1年くらい休養が必要だったのだ。それをうつと気付かずに、毎日無理して、無理しまくって働いていた。研修が終わって、自分の職場でスタートしたが、人間関係は決して良くなかった。もともといるベテランさんに陰口いわれ、白い目で見られ、きちんと教えてくれる上司、相談できる上司はほぼいなかった。みんな、精一杯で教育体制が整っていなかったのだ。
はずれだ、でも続けるしかないともがき続けた。23時に帰宅して、絶望する日々、こわれていた私の心は限界をこしてもう、どうでもよくなっていた。都会の環境が悪いのか、と半月で異動して田舎の方で務めたが、そこにもやっぱり嫌味を言ったりいじわるをしかける人がいて、耐えられなかった。12月に退職して、転職したが、その先でもそもそも1日8時間働く体力が残っていなかった。ほぼ毎日頭痛と不眠になやまされ、帰りの電車では涙が止まらない。もうその涙の意味すらわからなくなって、感情麻痺がおこっていた。
絶望の中
1週間でその会社をやめ、自己判断で病院へいくと、
疲労・不安・うつ と言われた。ほっとして、涙が流れてそこからは実家の庭を眺める日々が始まった。でもやっぱり社会人として終わった、とおもって働けない自分が生きている価値がない、とずっと思って人生どん底だった。さけんで、ものを投げて、過呼吸になって、無言、頭を壁に打ち付けたり、自虐を繰り返した。病院でもらっている薬を飲んでなんとか落ち着かせて、寝る。そんな日々を繰り返し半年すごした。もちろん親も心配したし、対応に困っているようだった。自分も親に迷惑を掛けたいわけではないけど、今吐き出さないと、回復できないとカウンセリングでいわれていたので、自分の感情に正直に過ごした。
喋りたくない時は無言、泣きたいときには涙を我慢しない。
これまで感情を殺してきた自分が、「もっと感情を大事にして」と毎日訴えかけていた。人に言えないこと、自分の嫌いな部分、小学生の頃に嫌だったこと、つらかったのに相談すらできない状況におかれたこと。
その全部全部をだきしてめてあげる時間が必要だったのだ。
徐々に親もそれを理解して、きちんと過去のことも謝ってくれるようになり、これからの未来、別に会社員じゃなくて、きのこのこころとからだが無事で生きていてくれればいい、と伝えてくれるようになった。
その頃から、心がほどけてきた感覚があり同時に体も散歩ができるくらいに回復してきた。
バイトを始めた
最初は1日4時間の短時間で、週2とかの楽なものかつ責任を負わないバイトを探して、受かった。でも1日目で無理だ、と思った。知らない人と喋ることが久しぶりすぎて、家族以外と喋るのはこんなにも大変で、不快なことなんだと諦めた。その日のうちにやめて(迷惑かけた)、しばらくふたたび落ち込んだ。4時間のバイトすらできない自分って何だろう。そんなときも親は静かに見守ってくれた「まだ、その時じゃないんだよ」もう少し休む必要があるってこと。病院には2週間に1回通って、しばらくしたら1か月に1回になった。診察では優しい先生で、いつも「きのこさんはどう思いますか?」と意見を尊重してくれた、というか自分で考えるくせをつけてくれた。先生によっては、こうしたほうがいい、と半ば強引に精神を強制するような人もいて、だから私の先生にめぐり合えたことは、かなり運が良かったと思う。先生が合わなくて悪化したり、回復が遅くなるということはよくきくから、そこは本当に大事なこと。
バイトがしんどい
しばらくして、コンスタントな弁当屋にバイトを申し込んだ。こちらも人手不足で受かって、働き始めたけどしんどくてたまらない。優しいと思ったオーナーは、気分で怒りっぽいこともしばしば、二番手はそれに逆らえずでも愚痴をこぼしまくる。あんまりいい職場ではなかったかもしれないけど、唯一同年代の男の子が、やさしくしてくれた。その子にとっても唯一の同年代だった私に、話しかけてくれたり優しく教えてくれた。オーナーとぶつかった時には、バイト後におごるからといって、一緒にハンバーガーを食べに行って、車で気晴らしに付き合ってくれた。そうやって、どこかに支えてくれる人がいて、自分が無理と思ったときには人にいえるようになってきた。
結局そのオーナーにも、不満を直接ぶつけまくって、それまでの自分の人格では考えられないようなことをしたと思っている。
そのうち、もう一つのバイトを始めて月に10万弱稼げるようになった。
その頃から、もう一度一人暮らしに戻って、やりたいことを追求したい、という思いが芽生えた。
働きたい、やりたいことがあると気付いた
体が回復して、動けるようになってきて(まだ人ごみなどは苦手)、こころの元気も少しずつ感じられるようになってきた。この時点で、退職から1年たっていた。そして、大学時代を思って地域に関わる仕事がしたい、と思い始めた。就職先を探しながら(田舎に住みたい願望)、フリーでライターとしての技術を磨いた。といっても、インターンシップで記事を添削してもらったり、取材のノウハウを身に着けた程度で、たまたまその後仕事を1本もらえたくらい。その時フリーでやったことは、今にも生きているから、資格でもなんでも、やってみようと思ったときに少しでもいいから手を付けてみる、動いてみるってのは大事だな、と思っている。もちろん、からだとこころにゆとりがあるのなら、だけど。
一人暮らしの決断
1月には就職がほぼ決まり、下見に行った。田舎のちいさな町で、実家からは3時間半くらいかかる。遠いけど、誰も知らない小さな田舎に住みたい、という願望にはピッタリだった。何より仕事内容がライターを活かしつつ地域に関われる、今の自分の願望をかなえたものだったので、即決した。一人暮らしを無事終えて、4月を迎え、何も知らない、知り合いもいない土地での暮らしが始まった。
一人暮らしを始めて
毎日忙しくて、ばたばたしつつ、寝れなかったり、淋しくて泣きまくっていた。まだうつと隣り合わせってことを毎日痛感していた。家族と電話して、帰りたいと弱音を吐きまくった。憂鬱で、やっていけないと毎日思ったけど、その地域の海とか好きだったので、海を眺めて自分をなだめたり、精神安定剤と睡眠導入剤をフル活用して、もちこたえた。相談できる人、本音を話せる人がいないのは、こんなにもつらいのか、と思った。だけど、そもそもそんな人いたことあるっけ?と問い直してさらに空しくなったりもした。
職場環境は悪くなかったので、つらい日は本当に座っているだけでも許された。責任もない仕事なので、やりがいはないけど押しつぶされることもない。
1か月ごとの帰省
当初から2か月に1回は帰ろう、と思っていたのだが、心療内科も実家の方なので、結局1か月に1回は帰省している。交通費も時間もそこまではかからないので、救われている。なんせつらいのは、ホルモンバランスの関係で片頭痛が頻繁に怒ってしまったのだ。これにはかなりまいった、嘔吐までの重すぎる片頭痛に、一度救急車を呼んだこともあった。知り合いに相談できないことが、ここまでつらいと体の面で思い知った。
そして、人生初のコロナにもかかり、有給はなくなった、どん底に落ちた。
こころもつられて落ちていき、もうだめかも、と思った。
今 思うこと
だけど今、こうして一応生きている。奇跡かもしれない。
まだ希望をもって人生を歩んでいるわけではなく、かろうじて生きているくらい。なにか絶望的なことがあったら、また死にたいと思うかもしれない。
でも、とりあえず、生きる、それくらい。
やりたいことはまだあるし、命を大事にしていると両親が喜んでくれる。
どん底で感じた、自分への愛。何もできなくても愛してくれる人がいる。
無力で、相手を傷つけることしかできなくて、わがままで、自分勝手な最低な人間でも、生まれてくれてありがとうと思ってくれる人がいる。
それがわかっただけでも、この2年は意味があったかもしれない。
鈍感な人が、どれだけ幸せか疎ましく思ったこともある。
人の目線を気にしすぎたり、自分が好きになれなくて嫌になることもしょっちゅう。でも、それが自分だから、受け入れるほかないんだ。
まずは、自分を愛せるようになる、それもひとつの回復なのかもしれない。