弥生時代の大和(奈良)って?② 銅鐸の生産拠点だった拠点集落『唐古・鍵遺跡』
弥生時代の終わりに突如現れた『纒向遺跡』。その『纒向遺跡』ができる前の大和盆地について、調べていきたいと思います。
ここでは、奈良県を代表する弥生時代の環濠集落である『唐古・鍵遺跡』について紹介します。
【唐古・鍵遺跡の概要】
場所は、奈良県磯城郡田原本町です。
遺跡は史跡公園となっていて、「道の駅」が併設しており自動車でのアクセスは良好です。
最も栄えたのは 弥生時代中期後半から後期(BC2-AD2世紀) の頃。竪穴式住居の数などから最盛期は900人(180世帯×5人家族)と推定されています。
唐古・鍵遺跡の周辺には、分村したと考えられる衛星集落が周辺に存在する。人口増加や水田開発に伴い、開拓された集落と思われます。
このように拠点となるような巨大な環濠集落を「拠点集落」とも呼ばれています。
『他地域との交流について』
以下に唐古・鍵遺跡から出土した各地の弥生式土器を示します。
纒向遺跡が出現する前の大和盆地では、西は播磨、東は三河までで作製された土器が出土しています。このあたりまでが主な交流のだったと思われます。
土器の視点では、「出雲などの日本海側」や「九州」「吉備」「阿波」あたりとの交流の根拠は 見られませんでした。
『銅鐸の鋳型について』
唐古・鍵遺跡からは石式や土式の「銅鐸の鋳型」が見つかっており、銅鐸の一大生産拠点であったことが知られています。他にも石器や木製品などの製作工房跡もありました。
大阪・奈良の辺りでは、他には大阪府茨木市の「東奈良遺跡」も「銅鐸のの一大生産拠点」であり、この2つの遺跡が、このあたりの「銅鐸文化」を支えていたことが伺われます。
『唐古・鍵遺跡の衰退について』
奈良を代表する環濠集落である「唐古・鍵遺跡」は「纒向遺跡が出現した頃」に突然、衰退します。具体的には紀元2世紀頃に、規模が縮小され、環濠が埋没します。
環濠には多量の完全な形の土器で埋没しており、儀礼的な行為だった可能性もある。纒向遺跡の出現と密接な関係があったことが伺われる。
ちなみに「東奈良遺跡」(大阪府茨木市)も3世紀になり規模は縮小していきます。
そして弥生時代後期後半には、大和地方の金属器生産工房は「唐古・鍵遺跡」から「坪井・大福遺跡」や「脇本遺跡」へシフトしていくこととなります。
また『唐古・鍵遺跡』周辺では、弥生時代後期に『保津・宮古遺跡』が大きく発展します。『保津・宮古』エリアには、「鏡作伊多神社」が2つあります。周辺まで合わせると5つの「鏡作神社」があります。
過去の記事で「鏡作坐天照御魂神社」を紹介しましたが、そこでは「唐古・鍵遺跡」の衰退の時期に この辺りで鏡作が始まったのだと推察していました。まさにこの「宮古・保津遺跡」が弥生時代後期に大きく発展したことがピッタリと当てはまります。
<まとめ>
唐古・鍵遺跡は、纏向遺跡が栄える前の大和盆地の中心地の一つでした。銅鐸を作っていたことから、出雲などの日本海側と、文化的には友好な関係だったと考えます。