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出雲口伝における物部伝承⑤ヒボコ一族の侵攻(補足)
前回の記事で、「ヒボコ一族の播磨への侵攻」について紹介しました。
この記事では、「考古学的な視点」で2世紀末ごろの播磨について見ていきたいと思います。
「兵庫県加古郡播磨町」に【大中遺跡】(弥生時代後期)があり、そこには「兵庫県立考古博物館」と「播磨町郷土資料館」が建てられています。
今回の内容は、そこで得た「播磨地域の歴史」の情報をベースにしています。
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<弥生時代中期の集落>
稲作に適した川沿いや 海辺に開いた平野部を中心に 集落ができていました。 このことからも、弥生時代の終わりにも「播磨国」の海沿いの平野部には多くの集落があったものと考えられます。
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<大中遺跡(兵庫県 播磨町)>
AD100年頃にでき始めた集落で、AD250年頃に突然使われなくなりました。
当時、貴重品だった中国製の鏡(内行花文鏡片)などが出土しています。
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<長越遺跡(兵庫県 姫路市)>
弥生時代末から古墳時代前期の土器が大量に出土しているが、なかには畿内、山陰、四国など、播磨以外の地域から持ち込まれた土器もあり、人・モノの交流があったことを物語っている。
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<ちょっと考察です>
「播磨国」は、大和-出雲連合にとって重要な中継場所だった。
「長越遺跡」で、弥生時代末の各地の土器が大量に出土しているのも、この「大和-出雲連合」の名残りと思われます。
そして「倭国大乱」があったとされる2世紀末に「ヒボコ」の軍勢は日本海側の「豊岡盆地」から「播磨国」を攻めてきた。
それを排除するために、畿内から【フトニ王(孝霊天皇:7代)】の軍勢が大和からやってきた。
【フトニ王(孝霊天皇:7代)】の軍勢は加古川の東岸にある「日岡神社」のあたりに拠点をおいたという伝承があり、その近くにあった「大中遺跡」の集落は、地理的にはフトニ王を支援していたものと考えられます。
やがて「フトニ王」の軍勢は「ヒボコ」の軍勢を「播磨国」から追い出すことができた。
それから、(後の記事で記載する予定ですが)しばらく経った3世紀中頃に「九州勢力」が畿内にやってきて、権力構造が大きく変わることとなります。
その際に「大和の既存勢力」側にいた各地のグループの中には、戦乱の中、拠点を捨てて逃れていったグループもあったと思われます。
【「大中遺跡」の地にあった集落がAD250年頃に突然捨てられた】ことも、その1つだったのではないでしょうか?
(つづく)