見出し画像

孝霊天皇の鳥取遠征⑤「楽楽福神社」の1つ<宮内> ※神社跡も 

伯耆国にはかつて、6社の「楽楽福神社」がありました。
 いずれも孝霊天皇にゆかりのある神社です。

ここでは、<宮内>にある1つの神社と 1つの神社跡を紹介します。


【樂樂福神社 <鳥取県 日南町宮内>】

 後述する『西樂樂福神社』が合祀されるまでは「東樂樂福神社」と呼ばれていました。

社紋 亀甲に「樂」の字

 この神社は開運招福・願望成就の福の神として人々の崇敬を集めており、孝霊天皇が長年住民を苦しめた鬼退治に成功したという縁起が伝わっている。開運八神社の1社です。
 駐車場もあるため、自動車でもアプローチしやすい神社です。

ここの神社は、HPも作成されており、書き置き御朱印もありました。

<ご祭神>
⚫大日本根子彦太瓊尊 第七代孝霊天皇
 「孝霊天皇」が当地を巡幸された折に鬼林山(きりんざん)に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞召され御一族を従えて彼の邪鬼を見事に退治された日野郡開拓鎮護の総氏神。

⚫細媛命 皇后(ほそひめ)
 孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。平安時代末期頃までは「臍」(へそ)のことを「ホソ」と発音した。此即ち細媛命を安産の大神と敬い奉る所以である。

若建吉備津彦命 皇子(わかたけきびつひこ)
  兄皇子の大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)と共に四道将軍として吉備の国を平定された知慮と武勇にすぐれた大神。

福媛命 后妃(ふくひめ)
 孝霊天皇の皇女とする説もあり。日南町印賀に鎮座の「樂樂福神社」は主祭神の皇女「媛姫命」(ひめのみこと)を此の福媛と同一のお方として奉斎する。

彦狭嶋命 皇子(ひこさしま) 別名 歯黒皇子(はぐろおうじ) 
 此の皇子はお生まれになった当初から鐡(てつ)の如き黒々とした強い歯がすでに生え揃い、ご性分もすぐれておられたので、天皇巡幸の御時は必ず此の皇子を伴われた。此即ち 彦狭嶋命を歯の大神と敬い奉る所以である。

※隣接にあった「西樂樂福神社」も合祀されています。

<摂社 若宮神社ご祭神>
 磯城縣主大目命(しきあがたぬしおおめのみこと・細媛命の御父神)
 欝色雄命(うつしこおのみこと)
 大矢口宿禰命(おおやくちすくねのみこと)  
 大水口宿禰命(おおみなくちすくねのみこと)
※孝霊天皇に随従され当地方の開拓に功績を残された大神達。

<末社 木野山神社ご祭神 >
 大山祇命(おおやまづみのみこと)  
 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)


<ご由緒>
 当社は大日本根子彦太瓊尊(第七代孝霊天皇)を主神とし、皇后、后妃、皇子及び其のご一族を奉斎する。
 天皇はご幼少の御時「樂樂清有彦命(ささきよありひこのみこと)」と称し、また「笹福(ささふく)」と号された。古くは砂鉄生産の守護神として厚く崇敬され日野郡開拓鎮護の総氏神として「日野大社笹福大明神」と尊称された。

 ご祭神の原初的な祭祀は古代まで遡ると考えられるが神社としてのご創建は仁和二年(西暦八八六年)との口伝がある。
 孝霊天皇が当地に巡幸された折に鬼林山(きりんざん)に蟠踞(ばんきょ)する「牛鬼(ぎゅうき)」の名で恐れられる一団が里人を悩ます由を聞し召され、皇子神達や随従の神々を率いて彼の凶賊を悉く退治された。境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっている。

 一方、細媛命はご巡行中の天皇の御跡を慕ってお尋ねになる途中、お産のお悩みがあり日野川のとある石の上にお憩いになる。
 時節は五月のなかばにして雨が多く降り里人は畏みて菅の蓑と笠とを奉った。また増水した川の水音が高く聞こえた為、皇后が「水音喧(みずおとかま)」と仰せになると水の音が忽ち止んだと伝わっている。よって日野川のこの流域(日野町上菅)は「音無川(おとなしがわ)」と呼ばれるようになった。そして其の地をお立ちになる時「むら雨の露のなさけの名残りをば此処にぬぎ置く菅の蓑笠」と御歌を詠まれた。そして更に川上に上られて天皇とお逢いになり、宮内の里は良い宮処なりと御所を定めて多くの年月を過ごされたと伝わっている。
 即ち当社はご祭神の偉大なる御治績を追慕尊崇して鎮斎された古社でその宮処こそ「内裏」と尊称された現在の社地である。

立派な杉玉が飾られていました。


⑤西樂樂福神社跡地<鳥取県 日野郡日南町宮内>

 平成16年11月3日に「東樂樂福神社」に合祀され一社となりました。

<旧 西樂樂福神社のご祭神>
⚫大日本根子彦太瓊尊 第七代孝霊天皇
⚫ 細媛命 
大吉備津彦命(若建吉備津彦命の兄皇子)
⚫彦狭嶋命
⚫絙某弟命(はえいどろのみこと) 
⚫大山祇命(おおやまづみのみこと) 

石碑は立派に残っています。


神門の跡


本殿跡 (石段がわずかに残ります)

※神宮寺は残っています。



<この記事のまとめ>
かつて隣接する2つの「樂樂福神社」がありました。

「東」と「西」の祭神を比較すると、『東』にはの若建備津彦命が御祭神に入っていて、『西』にはの大吉備津彦命が御祭神に入っていました。

 この違いに着目すると、兄弟それぞれの行宮だった可能性があります。

いいなと思ったら応援しよう!