百襲姫が過ごした讃岐③水主神社
引き続き、「孝霊天皇」(7代)の皇女である「倭迹迹日百襲姫命」に関わる神社や伝承を調べていきたいと思います。
<水主神社>香川県東かがわ市
大雀大神とは、仁徳天皇のことでしょうか?
本殿の前には、「天ノ磐船(うつぼ船)」が。
「天ノ磐船」というと饒速日を想起させるのですが、「倭迹々日百襲姫命」も奈良の黒田から「うつぼ船」で讃岐にやってきたようです。
「倭迹々日百襲姫命」は奈良の黒田を7歳の若さで出発し、8歳にここに着いた。そして成人になるまで、ここ「水主宮」に住んだようです。
「倭迹々日百襲姫命」は、「何故、奈良から讃岐に来たか?」というと「卑弥呼」の死後に再び騒乱があったので、それを避けるために来たそうです。
そして、「水主神社」には弥生時代から古墳時代を含む遺跡があるそうです。「姫の御陵」(水主神社古墳)という古墳です。
<ここから考察です>
孝霊天皇(7代)の皇女である「倭迹々日百襲姫命」は、奈良の箸墓古墳に埋葬されているとされています。
そして、卑弥呼候補の有力な1名でした。しかしながら、この神社の伝承では、「卑弥呼が死んで騒乱があったからそれを避けるために幼少期に奈良の黒田からやって来た」としています。つまり、「倭迹々日百襲姫命」は「卑弥呼」の後の世代ということを言っています。これをどう解釈するか?です。
孝霊天皇(7代)の皇女とすると西暦200年前後の活躍となるはずです。
しかし、この神社の伝承どおりとすると、250年頃に幼少期を過ごした人物となります。そうなると、明らかに孝霊天皇(7代)の皇女には無理があります。
この伝承にある「争乱」は「倭国大乱」のことであり、そのころが幼少期であったとすると、「孝元天皇」(8代)の皇女あたりとするのが妥当なように思いました。
謎が深まるばかりです。
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