出雲口伝における物部伝承⑫九州勢の東征2回目-3/4
「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。
※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。
<タジマモリの裏切り>
イクメ王の協力者だった「タジマモリ(田道間守・但馬守)」は、イクメ王を襲撃し自分がヤマトの王になろうと陰謀を企んだ。
困ったイクメ王は、出雲を攻略した「物部十千根(秋上十千根)」に、タジマモリを追討するするように頼んだ。そこで「物部十千根」は旧・出雲王家の富家に出陣を頼んだ。
「富家」は「出雲王国」を滅ぼした物部勢力は嫌いであったが、それ以上に、かつて出雲の聖地を荒らし、破壊したタジマモリは嫌いであった。
そのため、この復讐が目的で、富家はイクメ王の要請に応じることとした。
旧・出雲王家の「富家」は、家名を「野見家」に変え、家長は「野見大田彦」を名乗った。
出雲軍は奈良盆地の西北から侵入し、「当麻」地域に割拠するタジマモリ軍と争い、河内国に追い出した。さらに西に進んだ出雲軍はタジマモリらを淡路島に追い払った。
イクメ王は喜び、野見大田彦に物部勢力の家柄の敬称である「宿祢」を与えた。以後、彼は「野見宿祢」と呼ばれた。
※この内容は「記紀」では、「野見宿禰」と「当麻の蹴速」の相撲伝承として記載された。
<登美家(賀茂家)の移動>
三輪山の南方の鳥見山付近(奈良県桜井市)には「登美家」の拠点があったが、豊国軍の不意の攻撃を受け、三輪山方面の領地を奪われた。
そのころのヤマトを拠点としていた「登美家」は「賀茂家」と呼ばれるようになっていた。
「賀茂家」の集団は、山城国南端の「加茂町」に地盤を移した。
賀茂家系譜の11代当主・大賀茂津身は、岡田(木津川市加茂町)を拠点とした。
そして、この一族が京都の上賀茂神社や下鴨神社を創建する事となる。
<豊姫の月神祀り>
三輪山周辺に拠点を置くことができた、【豊来入姫】は、三輪山の西北麓の笠縫村に「桧原神社」を建てて、【月神】を祭った。
当時は太陰暦を使う時代であって、月の干満をみて、月日を決めた事から月神は「月読の神」とも呼ばれた。
【檜原神社(ひばらじんじゃ)】
(現在の)御祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)
(社伝や記紀による)御由緒:宮中より「天照大御神」を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになった場所。
※豊来入姫が後に追放されることとなる。
その際に御祭神が代わったものと推察します。
(つづく)