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饒速日命墳墓 と稲蔵神社<奈良県生駒市>

神武東征より先に大和を治めていたとされる「饒速日」(ニギハヤヒ)について、調べています。

ここまでの記事で調べた内容は、生駒山の北西側の大阪エリアばかりでした。その内容は、子孫である伊香色雄命(物部氏)が、祖神としての饒速日命を祀ったものでした。つまり、後世の活動の記録であり、饒速日命ご自身の活動の記録ではありませんでした。

 この記事からは、生駒山の東側となる奈良エリアにて、饒速日命にゆかりの地を探していきます。饒速日命ご自身の活動が捉えられる情報が得られることを願いながら。

奈良県の北西部に位置する生駒市で調べたところ「饒速日命の墳墓」があることが判明。早速現地に向かってみました。

<饒速日命墳墓>
 
場所は『近鉄けいはんな線』の「白庭台駅」近くの小高い丘(林の中)にあります。下のように「地図」では「白庭台駅」の近くに見えますが、勾配差があり「白庭台駅」からは行くのは難しく、奈良市立総合公園の駐車場に自動車を停めて、山道を歩いて行くこととしました。
 大きなグランドから鉄塔の東脇にある山道に入り、鉄塔沿いに歩くこと約15分でたどり着きます。勾配は緩やかです。

饒速日命の墳墓は、生駒市の小高い丘にありました。


石碑は、近代以降に建てられたとして、石碑の後ろに積まれている「小石」で築かれた塚はいつ頃から始まったのだろうか。



<長髄彦本拠の碑>
上の「地図」にあるように「饒速日命墳墓」の少し北側の住宅地に「長髄彦本拠の碑」があります。気になったので現地に向かってみました。

饒速日命の墳墓から少し北側にある石碑

農業用水としてのため池の前に「石碑」だけがありました。

 周辺の道は本当に狭いので、自動車で向かう方は、少し離れた場所に駐車することをオススメします。

<稲蔵神社>
上の「地図」にあるように「饒速日命墳墓」のある丘陵の南側に「稲蔵神社」という「饒速日」に関連する神社がありました。

神聖な雰囲気がありました。

 このあたりも道が狭く、周辺には駐車スペースがありませんでした。少し離れた場所への駐車をオススメします。

ご祭神:
生魂明神(いくたまみょうじん)
大宮能御膳神(おおみやのみかしわでのかみ)ほか


饒速日命(にぎはやひのみこと)が天の磐船に乗り、河内の哮ヵ峰(たけるみね)に天降になった際、共に天降った生魂(いくむすび)、大宮能御膳神(おおみやのみめけつのかみ)の二柱がこの烏帽子石に宿ったとされる。

拝殿の裏にある烏帽子石は神が宿る磐座とされています。

小明の鎮守として江戸時代頃創建されたと考えられます。
 ※生駒市デジタルミュージアムの情報より

生駒山脈の東に位置する矢田丘陵の北端をなす檜窪山(ひのくぼやま)という低山地の峰の頂上


【ここからは私の考察です】
 稲蔵神社は、心癒される素敵なパワースポットです。ただ、江戸時代に創建ということなので、饒速日の伝説が先にあったように思います。

『先代旧事本紀』(せんだいくじほんき)には「饒速日命は死後、神衣(かみみそ)・衣帯(みそみおび)・手貫(たまき:腕飾り)の三物と共に、鳥見(とみ)の白庭邑(しらにわむら)に葬られた。」とする内容があり、そこから江戸時代に、この地を「鳥見(とみ)の白庭邑(しらにわむら)」と比定され、「饒速日命墳墓」や「稲蔵神社」などが創建され、饒速日命が祀られ始めたものと考えます。

 3世紀に発展する「纒向遺跡(三輪山周辺)」などの政治の中心地となるエリアから遠く離れた場所にあり、唐古・鍵遺跡のような大型の弥生遺跡が生駒市には見つかっていないことから、現時点では「生駒市にある饒速日の足跡」は「根拠に乏しい」と感じてしまいました。
 
 水上運送ができる大和川や木津川・淀川などの水域でもありませんので、今後も、大型の弥生遺跡は見つからないように推察します。

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