2人の吉備津彦④『鬼ノ城』と吉備の鬼伝説
岡山の鬼伝説は、「鬼ヶ島」でなく「鬼城山」に鬼の拠点がありました。その名も「鬼ノ城」。
<鬼退治神話>
参考情報:吉備津神社のHPより
吉備の「阿曽の里」は、近くまで海であった。瀬戸内の海風に吹かれて人々はほっこりのんびり、幸せにくらしておった。
ある日、百済の国の王子「温羅」という、おそろしい者がやってきた。
(※ 月支国より来たという説もある)
髭がぼうぼう、目は虎や狼のように輝き、身の丈は四メートルもある乱暴者。足守川の西の新山に城をつくり、そばの岩屋に住み着いておった(※ 鬼城山の鬼ノ城)。
城の下を通りかかる船があれば、ことごとくこれを襲い、積み荷を奪い取るのは朝飯前。女や子供、弱い人間と見れば、ことごとく連れ去り、城へ閉じこめていた。あらがう人々を次々に釜ゆでにしたりと、やりたい放題。
里人たちは、時の朝廷に「助けてくだせえ。」とうったえた。そしてキビツヒコが遣わされた。
「皆、案ずるではない。」
キビツヒコはそう言って「吉備の中山」に陣を据えた。そしてその西には石の楯を築いた(※楯築遺跡の石板とされる)。
かたや、温羅も待ちかまえ、ついに、戦いが始まった。キビツヒコは岩に矢を置き、放った。温羅も矢を放つ。 どちらの矢もはげしく、空中で火花を散らして当たり、お互いの陣の間に落ちてしまって、相手にとどかない。(※温羅は矢でなく、岩を投げたとする説もある。矢と岩が衝突し落ちた場所が矢喰宮。矢立の神事に繋がる。)
なかなか勝負がつかない。キビツヒコは一計を案じ、二本の矢を同時に放った。温羅はそれとも知らず、それまでどおり一本の矢を放つ。これまでと同じく、お互いの矢が一本ずつ当たり、地上に落ちる。
しかし、キビツヒコの放ったもう一本の矢は、見事、温羅の目に刺さった。
温羅の目からはたくさんの血が流れ出し、ひと筋の川となって流れ、下流の浜を真っ赤に染めた(※温羅が吹き出す血で出来た川が 血吸川)
「これはかなわん。」温羅は雉に姿を変え、逃げることにした。
それを見たキビツヒコは、鷹となり、追いかけた。
追いつかれると思った温羅は、今度は鯉となって血吸川に飛び込んだ。
キビツヒコも鵜にすがたを変え、川に飛び込んで追いかける。
逃げても逃げても追いかけてくるキビツヒコに、温羅はとうとうあきらめた。キビツヒコはついに温羅をくわえて捕まえ、その首をはねた。(※温羅を噛み上げた場所が鯉喰神社)
しかし、その首は何年もほえ続け、人々をなやませた。キビツヒコは家来のイヌカイタケルに命じて、犬にこの首を喰わせようとしたが、それでもまだ、首はほえ続けた。
ある夜のこと、キビツヒコの夢に温羅があらわれ、こう言った。
「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせよ。釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴りひびき、わざわいが訪れるなら、荒々しく鳴るだろう。」
それから、御竈殿では毎年、その年が良い年かどうかを占うことになったという。(※鳴釜神事が残る)
キビツヒコは、【吉備の中山】のふもとに「茅葺の宮」を建て、二百八十一歳の長寿をまっとうした。
こうして、阿曽の里は平和を取り戻し、里人たちは元のように幸せに暮らした。今、その吉備の中山のふもとには、吉備津神社が建てられ、キビツヒコがまつられておる。
<鬼ノ城は 考古学的には?>
鬼ノ城は、実は7世紀後半に築かれた山城です。 「白村江の戦い」(663年)の敗戦後、百済からの亡命者の指導のもと、国土防衛を目的として築かれた朝鮮式山城とされています。
日本書紀などには 西日本の要所に大野城など12の古代山城(朝鮮式山城)を築いたと記されており、鬼ノ城も防衛施設の一つであろうと推測される。しかしどの歴史書の類にも一切記されていないなど、その真相は未だに解明されていない謎の山城である。「12の古代山城」に該当しないものは「神籠石系山城」と呼ばれており、こちらに該当する可能性もある。
ちなみに「白村江の戦い」(663年)の後に日本へ亡命した百済の貴族に「鬼室 集斯」がいました。この一族は「近江国」に住んだようですが、このように「鬼」の名がつく一族が築城に来ていたのかもしれません。
別の説として、「キ」は、百済の古語では城を意味し、後に「鬼」の文字をあてたものという説もあります。
いずれにしろ7世紀後半に築かれた「朝鮮式の山城」をヒントに「鬼伝説」が創作されたものと思われます。