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El hoyo 映画プラットフォーム 【解説】

制作:2019 スペイン
原題:【El hoyo】=「穴」
監督:ガルデル・ガステル=ウルティア

最終更新日2024・8・22

はじめに

監督の思考実験をそのまま映画化したような極めて難解な映像作品である。

ここでは、劇中で繰り広げられる奇妙な演出や人物描写の裏設定を解明し、
「伝言」に秘められた監督の真意へ迫ってみようと思う。
主観による考察ではなく、それなりの根拠を示しつつ解説していくスタイルなので、些か冗長な点はどうかご容赦いただきたい。

ほぼ同じ内容のレビューをAmaz●nにて投稿済み。
字数制限があるうえ、編集エラーが出て再投稿できない状態に陥ったので
こちらにて、大幅に加筆修正した内容を公開させてもらうことにした。


背景

直近の歴史にスペイン内戦~フランコ独裁政権という傷跡を残すスペイン。
なかでも、民主化後も続いたスペイン政府との係争(バスク紛争)で知られるバスク地方のビルバオが、G.G=ウルティア監督の出身地である。
本作の痛烈な皮肉は、そうした背景を持つバスク人制作陣ならではのシニカルな視点と、イデオロギーへの深い洞察が色濃く反映されたものだろう。


ミハル

イモギリとの会話でミハルの素性が補完される。

・ビビンバが好き
・女優であり演技はお得意のモノ(嘘つき)
・マリリン・モンローに憧れている(アメリカンドリームの体現者)
・親兄弟、子供なし(天涯孤独)
・イカれた殺し屋
・ミハルは連帯感を「利用」している
・喋れないフリ(ミハルは一度だけ喋っている)

以上を踏まえて比喩対象を考えてみる。

・ビビンバ好き=朝鮮料理
・演技はお得意のモノ=巨額の経済援助によって成り立つ自国経済
・(嘘つき) =対外債務の未返済
・モンローへの憧れ=資本主義経済への憧れ(混合経済体制)
・(天涯孤独 )=独裁者(ヘゲモニー政党制)
・イカれた殺し屋 =粛清による恐怖政治
・連帯感の利用 =社会主義国家における統治・支配手段
・喋れないフリ =制限された言論の自由

古今東西の社会主義体制に当てはまることから、現在では傍流とされるものを含めた「社会主義の象徴」という認識で間違いないだろう。

参考までに、現存する社会主義国家は中国・北朝鮮・ベトナム・ラオス・キューバの5ヶ国。
ミハルが犬を食べてしまう描写は、ある社会主義国家の食習慣「食用犬」を暗示したものと思われる。

ミハル(社会主義)の死(崩壊)を取り巻く状況に、
冷戦末期の世界GNPランキング状況(日米vsソ連という構図)を重ねると
興味深い関連性が見て取れて面白い。

また、英語版Wikiによると
ミハル(Miharu)は日本語「見張る(みはる)」に由来する名前らしい。
(該当するWiki記事を探してみたが見つからなかったので、
これについて詳しく言及されている方の考察記事リンクを貼っておく)

https://33press.com/cinema_el-hoyo_1/



なお、ミハルにはもうひとつ別の役割もあるので、
彼女の素性を(くどいほどに)箇条書きにした理由も含め、後述する。


イモギリ

現役バリバリの共産主義者。
同じコミュニズムの支持者とはいえ、ミハルとは立場が少々異なる。
ミハルは共産主義への過渡期にある社会主義の象徴、
かたやイモギリは、
共産主義を達成した歴とした共産主義社会の構成員」である。

彼女の思想は「無政府共産主義」に基づく。
これは資本主義を根本的に批判する考えであり、ロシアの革命家ピョートル・クロポトキンらによって提唱された社会モデルだ。
イモギリの主張する「自発的連帯感」の論拠を要約すると、
『相互扶助の利益を認識している社会では必要な労働を自発的に達成する』というもの。

Пётр Алексе́евич Кропо́ткин、Pjotr Aljeksjejevich Kropotkin

【VSC(垂直自主管理センター)】

映画内で政府への言及が一切無く、代わりに管理局なるものが運営している状況から、外界では無政府共産主義社会が実現していることが読み取れる。
それを踏まえたうえで、改めて(VSCの)舞台設定を見直してみると、
共産体制下の施設内で『資本主義モデルの社会実験』をしていると分かる。
この施設は自然発生的なコミュニズムの芽生えを目的としたもの、という
イモギリの発言と併せると、
『資本主義が成熟した後に社会主義(共産主義)が実現し得る』と定義した
マルクス主義に基づいて設計された教育施設として結論付けられる。

【認定証】

VSCでの教育課程を修了し、共産主義思想を究めた証(あかし)

建て前上はどうあれ、実際この施設で行われているのは、
入所希望者が上級国民に相応しいかを選別する為のサバイバルである。
察するに、ここを見事生き抜いた者は、信条は無論のこと心身共に優れた
人間とみなされ、そういった人物のみが社会的要職に就くことを許される「真・実力本位制」を採っているのだろう。

体制維持における最重要課題は「質の高い指導者層の確保」にある。
(仮想世界の話とはいえ)ここで描かれている上級国民ライセンス制は
極めて合理的な選別システムといえる。

また、囚人たち(トリマガシなど)は拘留対象でしかなく、
言わばシステムに組み込まれたギミックのような扱いなので、何年居座ろうと認定証は貰えない。

【ミハルの正体】

実は、ミハルは管理側の人間で、しかも秘密諜報員だった可能性が高い。
常に最上層から降りてくることが可能で、
名前の由来(ミハル=見張る)とも合致。
なによりイモギリの語る「ミハルの素性(前記参照)」は、そのままスパイのイメージと読み換えても矛盾がないよう慎重な言葉選びが為されている。

主な任務は上級国民を目指す者の監視、警護、場合によってはVSCに相応しくない収容者の排除。
探していたとされる「息子」とは、見守るべき対象(=ゴレン)のことで、彼女がゴレンに対してだけ優しかった理由も、これでようやく腑に落ちる。
また、スパイ=汚れ(穢れ)仕事として捉えると、
全うな共産社会における社会主義者(社会思想的弱者)という理由から、
被差別民的な立場にいたと考えられる。
ミハルが他の収容者より一段とみすぼらしい格好だったのにも納得がいく。

【イモギリの行動原理】

「穴」の実情を知らなかったイモギリは下級職員だったのだろう。
末期ガンに冒されていると知り、自身の人生を捧げた仕事の成果を確認したくて「穴」に降りてきたが、そこで目にした内実は、彼女が聞かされていた教育プログラムと似て非なるものだった。

ここで見られるイモギリとVSCの齟齬は、
史実のピョートル・クロポトキンとマルクス主義の齟齬を反映したもの。
具体的な対立内容を書くとトンデモナイ文章量になるので、
もし気になった方は、検索するなりして各々で調べていただきたい。

それでもめげず、揺るぎなき信念でもって住人の意識改革を試みるも、
あえなく失敗。そして最終的には自らがゴレンの食料となる道を選ぶことで
自発的連帯感の体現者となった。
彼女の言動が、のちにゴレンを動かすキッカケとなったことを考えれば、
哀しくも実りのある人生だったといえなくもない…。

実際の歴史が示すように、
人間が「ヒトという動物」で在る限り理想的な共産主義の実現は不可能だ。
(人類史において、真の意味で共産主義の国が存在したことは無い)
現時点では実現困難な理想を掲げるイモギリを「末期ガンに冒された人間」として、資本主義モデルの「穴」に登場させたのは如何にも象徴的だ。
対立する思想をあたかも癌細胞のように扱う、敬意を欠いた資本主義シンパへの皮肉であり、未だ共産主義を全うに理解出来ていない(=癌を克服出来ていない)未熟なヒトを揶揄したものにも見える。

子供

重要なポイントとなる子供に関する謎は二つ。
ひとつは「存在しないはずの階層に、存在しないはずの子供が居た」
という謎の設定。
そしてもうひとつが、幻覚バハラトの「あの子は伝言だ。伝言になる」
という謎のセリフ。

この二つの謎を結び付けるものが「形而上学」という哲学だ。

形而上とは「時間空間を超越した、抽象的、普遍的、理念的なもの
これを「子供と伝言」に当てはめて、分かりやすく表すと以下の様になる。

子供=「存在しないはずの階層に、存在しないはずの子供が居た」
⇒「時間、空間を超越したもの」
伝言=「抽象的、普遍的、理念的なもの」
⇒「あの子は伝言だ。伝言になる」

以上の事から、
子供の正体は、実体をもたない形而上的存在(=ゴレンの幻覚)であり、
時空間を超越して伝言となる存在を想定して描かれたことが導ける。

ここで思い出して欲しいのが、
夢の中でゴレンとミハルが繰り広げたベッドシーンだ。
子供の顔がミハルに似ているのは決して偶然ではないし、
夢の中での出来事とも無関係ではない。
ベッドの下に居た少女は夢の延長線上における「ゴレンとミハルの娘」であり、つまるところ、333層において全ての出来事は「こうであってほしい」というゴレンの願望の顕現に過ぎないのである。

併せて、この空間ではVSCの基本ルールが適用されていない様子から、
このとき既にゴレンたちは死んでおり、333層は実在しないことが分かる。

ちなみに「ベッドの下に隠れていた」という描写は形而下の暗示でもある。
これは形而上の対語として中国の古典「易経」に登場する言葉だ。

形而上者謂之形而下者謂之

」は形のないもの。それが実体のあるものに変遷した場合、その状態を形而下とし、その状態にある物を「器」と呼ぶ。

少女の存在を、どの観点から捉えるかの違いで、
「ゴレンの幻覚」とした場合、少女は形のない形而上的存在(道)だが、
ゴレンの視点から見た場合、少女は実体化した形而下的存在(器)なので
ベッド下という隠れ場所から現れ出た「パンナコッタの器」と同義になる。
いずれも「伝言=パンナコッタ⇒少女」を示したものに変わりなく、
要は監督の演出としては形而下、観る側の解釈としては形而上ということ

…ちょっとややこしいかもしれないが、
「易経」自体、内容的にも本作と通ずるものがあるので、私の拙い説明のせいでよく分からなかった方は是非とも読んでみてほしい。
(邦訳は勿論、アメリカでも『I Ching (Book-of-Change)』という題名で翻訳出版され、聖書に次ぐ大ベストセラーとなっている)

I Ching-Wikipedia / 易経 形而上学

【パンナコッタ私見】

最上層の管理者は、字義そのままに「世の管理者の象徴」である。
政治指導者や大企業幹部、そして子供の管理者としての大人(親)も含む。

あらためてグレタ氏(かつての環境少女)の例を挙げるまでもなく、
既得権益にしがみつく大人(資本主義中毒患者)には何を言っても無駄だ。
賢者様の言うように「管理者には良心はない」のである。
そういった大人たちによるメディアをも巻き込んだ教育シーンは、
当然、本作とは真逆の「資本主義ファンタジー」一辺倒にならざるを得ず、
それはひとえに、新たな中毒患者の量産行為に他ならない。

今や資本主義中毒は、あらゆるイデオロギーの枠を超えた種全体の遺伝病と言っても過言ではない。

ゴレンから娘へと受け渡されたパンナコッタは親子を繋ぐ絆としての「楔」であると同時に、遺伝病という負の連鎖へ打ち込む「楔」でもある。
思うにこの楔は、現代社会の歪んだ構図(管理者=資本主義中毒患者)に
対する監督なりのアンチーゼなのだろう。

ラストシーン


そして迎えるラストシーン、
「時空間を超越して伝言となる存在」の行先は、描くだけ野暮だろう。
なぜなら最上層で働く者たちは、
労働者としての私達(視聴者)のメタファーだからだ。

「管理者には良心がない」けれど
働く者たち(視聴者)にはきっと伝わる

監督はハリウッド映画にありがちな「正義の押し付け」を是としていない。
彼の想う伝言(メッセージ)とは、
それを本当に欲する人にだけ届く(届けられる)モノであり、
決して誰かに強制する(誰かから強制される)モノではない
のだろう

視聴者を信じてこその「描かない」という選択であって、決して手抜きではない。もっと評価されて然るべき名シーンだけに、理解されていない現状は寂しい限りだ。

まとめ

ラスト直前、ゴレンとトリマガシの間で印象的な会話が交わされる。

「我々は共に発ち、共に旅をする。我々は運も財産も共有し分かち合う」「お前の旅は終わった。カタツムリ(怠惰の象徴)よ」
「まだだ。この子と上がる」
君は伝言じゃない。伝言に運び手は必要ない

やや間をおいて、納得した表情を浮かべたゴレンが言う。

「(もう私を)カタツムリと呼ぶな

監督の真意は傍観者としての「怠惰」を暴露することにあったのだろう。
いわゆるメタメッセージとして、
ゴレンをカタツムリ呼ばわりしていることや、当然、施設の実態に気付いているはずの「最上層で働く者たち」が我関せず自分の仕事にのみ腐心している様子からも、その意図を察することが出来よう。
それはまるで、
目の前に大きな「穴」(深刻な社会問題)が開いているにも関わらず、
気付かずに或いは見て見ぬフリをして普段どおり生活している私達への批判のようにもとれる。
また、カトリック派の教えに「罪は怠惰が引き起こすもの。よって怠惰は最も重い罪である」とあるように、知る機会に恵まれながら学ぶ努力を怠ることは「七つの大罪」にあたる。
VSCという教育施設を舞台としたのも、案外、そういった教えを背景に、
いつまでたっても学ばない私達を断罪しているのかもしれない。

どんなに優れたイデオロギーでも、実践する人間側が社会的動物として成熟できていないのであれば、その本来の力、輝きを失ってしまうものだ。
この「人間ありきのイデオロギー」という考えに基づいて本作を見直してみると、通説の「資本主義が孕む矛盾を暴露した映画」といった評価は見当違いであると分かる。
本作は寧ろ、自らが選択したイデオロギーすら全う出来ない「人間の未熟さを暴露した映画」であり、監督が、その結末を敢えて視聴者に丸投げした理由は、私達自身が考え、成長し、社会的動物として成熟を遂げる事こそが、現状打破への最適解だからに違いない。

【個人的な感想】
この映画は、VSCを舞台としたサバイバルを通して人類の歴史(主に社会思想史)を再現し、そこに連なる現代社会の問題点を見事に炙り出している。
ただしそれは、ただの薄っぺらい問題提起を意図したものではない。
そもそもネット全盛の現代において、小一時間のネットサーフィンで済むような内容をわざわざ映画という媒体で問題提起する必要性は皆無である。
本作の制作意義は、受け手側への啓発を企図した問題定義にあると断言していいだろう。

話をややこしくしているのが、映画内での比喩表現に於いて「映画の主題に関する比喩」「ストーリー構成に関わる比喩」「時事ネタにすぎない比喩」等々が混線した構成になっていること。
要するに詰め込み過ぎなのだ。
このメッセージの大渋滞をキッチリ整理誘導して「エンタメとしての映画」に仕上げる作業は決して簡単なことではなく、未だ経験の浅い(本作が初の長編映画である)監督の手に余る仕事量だったと言わざるを得ない。
もう少し視聴者側に配慮してエンタメ寄りのバランス調整が出来ていれば後世に語り継がれる名作となった可能性もあるだけに残念だった。

とはいえ、ここ数年で最も考えさせられた作品であることは確か。
久しぶりに最後まで集中して鑑賞出来た気がする。
エンタメとしてではなく、啓発作品として捉えるなら唯一無二の出来映えなので、個人的な嗜好に関わらず人生で一度は観ておくべき映画として評価したい。

—‐最後にマハトマ・ガンディー氏の名言を拝借、それを以て、本稿の締めの言葉に代えさせていただく。

世界は自分の写し鏡にすぎない。外界にあるすべての傾向は自分自身の中にある。己を変えることができれば、世界も変わる。自分の性根を変えた男には、世界も態度も改める。これこそが教えの極意だよ。こんなすばらしいことはない。幸せはここからはじまる。

http://www.nytimes.com/2011/08/30/opinion/falser-words-were-never-spoken.html?_r=1&nl=todaysheadlines&emc=tha212


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