遠くへ行きたい -さすらいへの憧憬-
コロナによって日常がことごとく変わってしまった。
それまで当たり前のように年に10回ほどの渡航をこなし、1年の4分の1ほどを国外で過ごしてきた。帰国するごとにたいてい季節はすでに移ろっていて、一つの季節をまるごと満喫することなく次の旅へ・・・。戻ればもう季節が進んでいる。30年以上も、こんな歳月を繰り返してきたことになる。
コロナ禍のあいだ、海外行きは事実上 閉ざされ、日本の途切れない四季のめぐりを否応なしに実感させられることになった。まるでそれまで日本人でなかったかのように、新鮮な気持ちで時の移ろいと向かい合った。
途切れずに刻々と時間が過ぎゆく感覚は、それだけ自分が見えないくらいゆっくりと、しかし着実に「終わり」に近づいていることに気づくことと同じ。コロナがもたらした非日常は、自分にも迫りくる「死」という、ごく当たり前の日常に目覚めさせてくれる契機でもあったのだ。
「遠くへ行きたい」というタイトルでこの文を綴っている。
なぜ遠くへ行きたいのか、自問してみる。たぶん不断に進みゆく時間の感覚から逃れるために、死への秒読みから目を背けるために、季節を跨ぐ外国への旅を自分の内面が欲してきたからではなかったか。海外への長旅は、たとえ仕事絡みのものであっても、私にとって逃避行にほかならないのだ。周囲の現実からの逃避というより、もっと根源的な、「死」という冷酷な事実からの逃避、時間の連続を断ち切ることによる「死」へのささやかな抵抗なのだと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?