シェアハウス・ロック(or日録)0226

『戦争論』(西谷修)を読む

 ビショップ山田さんと電話で話していて、談たまたま西谷修さんに及んだ。親しいらしい。
 ビショップ山田は舞踏家である。土方巽の最後の弟子と言われている。いわゆる暗黒舞踏ね。
 ビショップは一時「北方舞踏派」を名乗っており、その時期の拠点は小樽だった。鶴岡にいたころから「北方舞踏派」だったのか、そのあたりは微妙であるが、その後小樽で海猫屋という居酒屋に依拠していたころには、私にとっても大恩人のササキさんという人が、物心ともに彼らを支えていたと思われる。
 そのころ、ササキさんを訪ねて行っても、いつもタイミングが合わず、ビショップとは小樽では会えずじまいだった。仲良くなったのは、彼が東京へ戻り、練馬倉庫というところで活動を始めてからだ。
 さて、私は西谷修さんとはなぜか縁が薄く、いままで一冊も読んだことはなかった。一冊ぐらい読んでおくかなと思い、ビショップに推薦図書を聞いた。「一番有名なのは『戦争論』かな」という返事が返ってきた。
 早速図書館で借り、読んだが、一読、不遜にも「これは読むまでもないな」と思った。同書の頭のほうは、私が普段考えていることそのままに思えたからだ。
『戦争論』の入り口はクラウゼヴィッツである。これは順当。
 その後、エルンスト・ユンガーを引き、ロジェ・カイヨワを経由してフロイトの「エロス/タナトス」を通過して、エポケー(中吊り)概念に至る。この「中吊り」を完璧にしたものが核兵器であるという主張だ。
 ヘーゲルも人間の全体化(世界化)によって<歴史の終焉>(≒「中吊り」)に加担しているし、ハイデガーは、

 この実体的現実の世界のなかに、対象的現実を超えた「存在(存在する)」が見失われていることを指摘し、「なぜ存在が在って、無が在るのではないのか?」と問い直した。(同書p.111)

 そして、真打として登場するのがバタイユである。

 バタイユにとって<脱存>は苦痛と区別されない恍惚であり、何ものもそれを正当化しないばかりか、根拠の完全な不在だけがこの<体験>を支えるという。それでもバタイユがこの<体験>を求めるのは、いっさいの知が、対象の措定能力が無に帰し、その空虚の中に感性的強度だけがあらわな自己主張をする、そのような瞬間が人間の可能性であるかぎり、それに背を向けてすますのは無知にあまんじることだと考えるからだ。(p.114)

 また、

 知がすべてを知ろうとするなら、知が崩壊するところまで知らねばならないと(バタイユは)考えるからだ。(同)

 上記ががわかりにくかったら、それは西谷さんのせいではなく、私のせいである。いずれ、20行程度で要約しようとするのが無茶だ。でも、雰囲気程度は伝わったことを期待したい。もうひとつ、「これは読むまでもないな」と思った不遜は、同書を読むことによって、私の伸びしろを2、3割伸ばしてくれたことでぺシャンとなった。この2、3割は大きい。ほぼ無限大に近く大きい。
 出口はタルコフスキーの映画『ストーカー』だった。この話も、『戦争論』も一回で済むような話ではないので、いずれまた。そのときは、『ストーカー』を中心に、『戦争論』を逆に読んでいくようなことになると思う。

【追記】
 本日のお話は、わかりにくかったと思う。特に、<存在><無><脱存><体験>といったあたりが。明日、音楽の話をさせていただくが、そのお話がこのあたりのヒントになるのではないかと考えている。
 なんだか私、紙芝居屋のおじさんみたいになってきた。

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