シェアハウス・ロック2410初旬投稿分
スピリチュアル系について1001
天才鍼灸師・クボヤマさんのスピリチュアル系は、神道由来だった。言霊、鎮魂帰神、太占などと言われても、私にはなにがなんだかわからない。いや、それぞれどんなことかくらいはわかるよ。わかっても、ただどうしても信憑が得られないのである。一方、高尾山の天狗の話は、私には手も足も出なかった。天狗の話は、私は平田篤胤のものくらいしか知らない。後は、源義経だけである。
クボヤマさんは、スピリチュアル系に限らず、アヤシイ話が好きだったようだ。『竹内文書』『東日流外三郡誌』、神代文字なんかは大好物。『東日流外三郡誌』のダイジェスト版みたいなのは、もしや安東水軍の話が出てくるのではないかと思って、私も読んだことはある。つまり、偽書と言ってもそれだけでバカにすることはしないのが私の基本的立場である。たとえ「偽」であっても、「書」であるからには、なにがしかの意義はあるに違いない。これは、聖書の「外典」「偽典」からの連想である。
クボヤマさんがよく言っていた、大本教の出口王仁三郎、出口なおの話なんかは、それなりに対応できた。講談社文庫の『出口王仁三郎』も、私は読んでいる。これは史伝であり、なかなかよくできた本だった。グラビアの陶器(王仁三郎作)の写真がきれいだったことを記憶している。いま、『巨人出口王仁三郎』というタイトルで出ているのの前の版だと思う。ちなみに、『邪宗門』(高橋和巳)は、大本教がモデルである。これはいい本だった。
だから、クボヤマさんのそっち系の話にも、それなりには対応できたので、私もそっち系の人だと誤解されていた可能性はある。でも、前にも申しあげたが、私は、スピリチュアル系に関しては、若干の素養はあってもまったく適性がない。あっち系は、なんといっても適性に左右される。
ルドルフ・シュタイナーをスピリチュアル系と言ったら、怒る人もいるかもしれないけれども、私から見たら、彼も十分にスピリチュアル系である。もちろん、クボヤマさんはシュタイナーも好きだった。でも、7歳までが肉体、14歳までがエーテル体、21歳までがアストラル体とか言われてもなあ、なんのことやら。
神道系というのは、私から見たら理論がない。怒らないでね、神道系の人たち。まあ、落ち着いて考えれば、神道系というのはバリバリの汎神論だから、理論が神様のなかに溶融してしまっているのだろう。別の言い方をすれば、神様自体が論理のようなものだから、体系内からは体系を規定も証明も論証もできないみたいなことで、私には一番わからないところなのだろうと思う。
「適性がない」「わからない」と言いながら、言うが(メチャクチャだね、我ながら)、スピリチュアル系というのは、神道由来以外にも、仏教由来、キリスト教由来、イスラム教由来、自己流系があって、自己流系が一番タチが悪い気がする。タチが悪いというのは、私にはまったく理解の外という意味である。基本が占いという人に自己流系の人が多いような気がする。これも、気がするというだけの話でしかないけれど。
キリスト教由来の「霊」「霊性」1002
キリスト教由来のスピリチュアル系というのも、たぶん存在するのだろう。だが、私は知らない。それでは、正統的なキリスト教では、そういったものをまったく無視しているのかと言えば、そうでもない。「霊」「霊性」といったことは、ごく普通に言われている。
いま簡単に「正統的なキリスト教」と言ったが、対する「異端」とはなにかと言えば、「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」(381年)、その後の「カルケドン信条」(451年)に違背することが「異端」である。より正確に言えば、このあたりから「異端」は始まっている。それまでは、みんなそれぞれが言いたいことを言っていて、異端も正統もヘッタクレもなかったんだと思う。
前者は父・子・聖霊を同質(ホモウーシオス)であることを告白することであり、後者はキリストにおける両性(神性と人性)の区別が「融合によって(も)失われず、各性固有の性質が一つの人格と一つの位格に併存する」ことを認め、他方でマリアを「神の生母」と告白するものである(『トマスによる福音書』荒井献、p.89)。ちなみに前者は、三位一体論として知られるものだ。
だから、正統、異端などというのは、私のような素人ではちょっとわからないくらい微細、微妙なものなのだろう。
明日お伝えするマイスター・エックハルトは、ウィリアム・オッカムとともに異端告発を受け、審問を待つ間に没した。このことは、教皇ヨハネス22世がケルン大司教ハインリヒ2世へ宛てた書簡に出てくるそうだ。ちなみに、ウィリアム・オッカムは「オッカムの剃刀」のオッカムである。
普通、「オッカムの剃刀」はよく、「ある現象を説明できる理論が複数ある場合、より単純な理論を選ぶべきである」と説明されるが、より正確には「必要がないなら多くのものを定立してはならない。少数の論理でよい場合は多数の論理を定立してはならない」である。つまり、余分な部分を剃刀で削り取るということである。
「霊」「霊性」に戻ると、イマニュエル・カントは神の存在を証明しようとした。だが、カントは「神」とは言うものの、「霊」「霊性」に関しては、ぎりぎりのところで言っていない。その代わり、「超感性的存在」とは言っている。これは、「霊」「霊性」のことだと、私は判断する。
『プラグマティズム』のウィリアム・ジェームスは、同書で「人間の実体は心であり、さらに奥にある霊である」と言っている。アンリ・ベルグソンは、「人格性の原基=霊性」(『道徳と宗教のふたつの源泉』)と言っているし、カール・グスタフ・ユングは『無意識の心理』のなかで、心的エネルギーを「普遍的無意識の自律複合体としての霊」と言っている。
だから、キリスト教社会では、「霊」「霊性」というのは、けっこう普遍的なものなのだろう。
だが、規定が厳しいので、逆に「スピリチュアル系」などというチャラチャラしたところには接続しにくいのだろうとも思える。
人もすなる神学なるものを1003
神学なるものを勉強したくて、『神の慰めの書』を読んだことがある。マイスター・エックハルト(1260年??-1328年4月30日??)の著作である。手も足も出なかった。なんだか、言ってることがトートロジーのような気がしたくらいしかわからない。これは、いま思うとちょっと無茶だった。四則演算すら満足にできない小学生に、微積分の問題を解かせるようなものだ。小学生にしたら、設問の意味すらわからない。
約150年後のニコラウス・クザーヌス(1401年-1464年8月11日)の『神を観ることについて』になったら、多少わかった。クザーヌスによれば「神の本質は、あらゆる対立の統一にある」「無限のなかでは極大と極小(神と被造物)が一致する」となる。これはわかるような気がする。ホントかどうかはわからなくても、言っていることはわかる。
同書のなかで、肖像画を例に語る部分がある。肖像画の人物は、我々が絵に対してどこにいようが、我々に視線を送って来る。これが神の本質であり、神の視線であるといった比喩を使っていた。これはとてもわかりやすい。
シュライアマハー(1768年11月21日-1834年2月12日)になると、もっとよくわかる。それまで、天とか、上のほうとかにいた神を、シュライアマハーは私たちの心のなかにまで引き寄せた。
カール・バルト(1886年5月10日-1968年12月10日)になると、さらによくわかる。人間はしょせん神がわからない。だから、人間の視点からは神を語ることはむずかしい。でも、神の視線からだったら、神を十全に語れるはずだ。私の理解では、カール・バルトの神学の根底はこれである。「神の視線の神学」と呼ばれているのを、どこかで読んだ記憶がある。
ここから先は、素人の言いぐさを百も承知で申しあげれば、なんでもありの世界に突入する。「神の痛みの神学」とか、「解放のための神学」とか、前回、「三位一体論」以前の状態を「異端も正統もヘッタクレもなかったんだと思う」と申しあげたが、それに近いようになる。
そういったなかで、シモーヌ・ヴェイユの「神学」は興味深い。『重力と恩寵』がそれに相当し、現在『カイエ』(全4巻)としてまとまっているヴェイユのノートからギュスターブ・ティボンが一冊にまとめたものである。私は、『重力と恩寵』を「神の不在の神学」と勝手に名付けている。
ところで、自らの「霊性」に目覚め、「霊」からのサインを受けとるのが信仰に至る道筋である。もうひとつ、「見神体験」という道筋もある。
シモーヌ・ヴェイユには、どうもその体験がニューヨークであったとしか思えない文章があり、また、『オク語の霊性はどこにあるか』というそのものズバリの論考もある。後者は、残念ながら私は未読だ。
ヴェイユは最晩年、カソリックに漸近していったが、洗礼を受けなかった。これも、ヴェイユらしいところである。
「『悲歌のシンフォニー』0922」「どうか泣かないでください0923」で、グレツキーの交響曲を紹介したが、そのなかでドーン・アップショウの歌唱を「絶望の果ての果ての果てに立ち現れる一筋の希望」と形容した。『重力と恩寵』には、これに近いものを感じる。
神学とスピリチュアル系と1004
神学とスピリチュアル系とを一緒にしたら、スピリチュアル系はともかく、神学の側は怒るだろうと思われる。神学は「学」であり、そこから哲学を始めとして、いろんなものが派生してきている。たとえば、哲学にはギリシャ由来のものも、神学由来のものもある。
前々回にご登場願ったウィリアム・オッカムは、神学者ではあるが、論理学者と言えば立派な論理学者である。
ギリシャはギリシャ神話を一読すればわかるようにバリバリの多神教の土壌であり、前に申しあげたように、論理は神々のなかに溶融してしまっているので、神学が登場する下地はないと言っていい。その余剰がギリシャ哲学に向かったのではないかと私は推測している。そうであるならば、ややこしいことを考えるのは、どうも人間の業なのではないかと思える。
そうは言っても、同じ多神教でも、ヒンズー教には神学めいたものがあるように見える。後述するが、この「神学めいたもの」は、仏教にも影響を与えているし、ヒンズー教とブッダの関係は、ユダヤ教とイエスの関係に近いとも考えられる。
一方、神学は唯一神、一神教の土壌にしか成立しないように見える。エホバ、ヤハウェ、アラーは、同一人物である。こんなこと言うと、あっちからもこっちからも袋叩きに合いそうだが、歴史的にはそうだ。
昔、『コーラン』を岩波文庫で読んだことがある。あれは、インターネットのスレッドと同じ構造で、どんどんと新しいものが付け加えられるという仕掛けになっているが、初期のスレッドは、超をつけたいくらいの神秘主義である。神秘主義で緊張感があるというものを、私は初めてあそこで読んだ。後になればなるほど、生活宗教に近くなっていく傾向がある。
こう考えると、一番わからないのが仏教である。ブッダが直接言ったことは岩波文庫では『ブッダのことば』(スッタニパータ)の範囲のみではないかと私は思っている。まあ、これも素人の言うことだから、あまり本気になさらないように。
ブッダはもともと「正覚者」といった意味で、これには「複数形」も見られるというから、どうも「あの人だけ」を指す言葉ではなかったようであるが、「正覚者」という言葉のニュアンスからは、どうしても哲学や、それに近いものを連想してしまう。
前述のヒンズー教の神学のようなものは、後に仏教に影響を与えているように見える。端的な影響を言えば、仏教で「天」が付く存在(帝釈天とか、広目天とか)は、本籍はヒンズー教であり、元は神さまである。
大雑把に言えば、宗教というのは、分化する前は哲学だったり、論理学だったりする側面もあったのだろうし、いろんなものが分化していった残余が、現在の宗教であると言える気がするし、また仏教の例のように、様々な変遷を経たりする。
もうひとつ、ダイナミック、かつ本質的な変遷は、宗教というものは、その時代の社会思潮に逆立した形で登場し、それが社会思潮と取引をしつつ、徐々に社会に受け入れられていくという部分を、どこかで持っている。これの究極が「国教化」である。
対して、スピリチュアル系というのは、こういった荒波を受けず、ましてや乗り越えることなど夢にも考えてもいないという気がしてならない。一番悪く言えば、「思い付き」「なんとなく~気がする」であり、前述の言い方をすれば、あらかじめ社会思潮と取引をし、かつ鉄壁の不可知論に守られているという印象が私には強い。
もうちょっとスピリチュアル系にやさしい言い方をすれば、レヴィ・ストロースが言うところの「ブリ・コラージュ」であり、ここから出発してまともなことを体系立って言えるようになるには、相当の距離があると思わざるをえない。
とは言ってもスピリチュアル系1005
内村鑑三は、無教会派のキリスト者として、おそらく日本で一番知られている人であろう。内村をからかおうとしたのか、知人が「お宅の女中さんは、キツネを拝んでますぜ」とご注進したという話がある。内村は、「そうだ。だから、彼女は善良なんだ」と返したと言う。宗教に関連したエピソードのなかで、私が一番好きなものだ。あの内村鑑三がそう言ったというのがとてもいい。
ここまでは、前に申しあげたかもしれないが、今回のマクラである。
私の母も、「善良」な人だった。しかも、スピリチュアル系の人でもあった。だから、スピリチュアル系の話だったら、私としては、母の話を避けて通るわけにはいかない。
私の母は、大野先生という人に深く帰依していた。大野先生は法華経の行者であり、盲目だった。わかりやすく言うと、恐山のイタコさんに近い。手法も一緒。拝んでいるうちに、なにやらが降りて来る。
私が生まれ、首が座ると、母は私を抱いて、大野先生のところへ行った。大野先生は私を「見る」なり号泣し、「ねえちゃん(母を、大野先生はこう呼んだ)、大変な子を生んじゃったな」と言った。「かわいそうに、この子は相当苦労するぞ。かわいそうになぁ」と続けた。
どう答えたらいいかわからず黙っていた母に、大野先生は「でもな、ねえちゃん。この子は、どんな苦労にも負けねえ。心配すんな」と付け加えた。
私が20歳になる少し前のことである。私は、当時、危険物取扱者(乙種第4類)の資格が取りたくて、灯油を扱う米屋でバイトをしていた。試験を受けるには半年の実務経験が必要だったのである。3か月程度で願書に「半年勤務」と書いてもらえるだろうというのが、私の読みだった。
あるとき、米だか灯油だかを配達していて、軽自動車のエンジンが突然止まったことがあった。「アレッ」と思ったが、当然車は減速する。目の前の見通しの悪い交差点(私のほうが優先で、向こうが一時停車だった)の鼻先を、一時停車をせずに大型ダンプが猛スピードで通り抜けた。エンジンが不調にならなかったら、当然大事故になるところだった。
ダンプが過ぎたら、エンジンは元に戻った。それからは、私が資格を取り、そのバイトを辞めるまで、まったく問題なく車は動いた。
このことは、母には言わなかった。言ったら、「そんな危険なバイトは辞めろ」と言うに決まっているし、まだ危険物取扱の試験前だったのである。
ある日、大野先生のところから帰ってきた母が、「こういうことがなかったか」と言って、この「事件」を聞いてきた。大野先生のところで、「霊神さま」(私の守護神らしい)が降り、この話をし、「うちに帰って、聞いてみろ。あれは私が止めたと伝えろ」と言ったという。
これが私が経験したスピリチュアル系的な(なんという日本語だ)、不思議な話のハイライトである。
私は、内村家の女中さんや、私の母ほど「善良」ではないので、この話で「霊神さま」を信じるようにはならなかった。だが、人並みに苦労をしていたときでも、大野先生の言葉を反芻し、「そうか、おれはこの苦労には負けないんだな」と思ったことが再三あった。こういう予言は、予言としてとてもいいと思う。
「霊神さま」のほうは、母が人並み以上に遇してきたはずなので、まだ「有効期限」は切れていないのではないかと思っている。
世の中には仕事ってのがあってね1006
天才鍼灸師・クボヤマさんの話以来、スピリチュアル系、宗教系の話が続いたが、クボヤマさんネタは今回で最終回。スピリチュアル系もネタが尽きたので、今回が最終回。宗教ネタは、そんなに甘っちょろいものじゃないので、まだまだネタは尽きない。
クボヤマさんが素っ頓狂なのは、当『シェアハウス・ロック』登場時に申しあげたが、まだまだ素っ頓狂ネタはある。いくらでもある。
あるとき、私の仕事場に電話がかかってきた。確か、「なにかを発明しそうだ」という話だった。「発明しそう」ってのもヘンな話だが、「発明した」だったら「先例があるのでそれはダメ」とか、「高くなりそうなので、それは無理」とか、「物理的に成立しない」とか、「いけそう」とか、2、3分で済む話である。ところが、5分くらい話していた記憶があるので、もうちょっと手前だろう。つまり、「発明しそう」という段階である。
たとえば、「万能絵描き道具」を発明したらいけると思うが、どうやったらつくれるか相談に乗ってくれとか、そういった類の話だったのだと思う。これはなかなか時間がかかる。
会社にかかってきた電話で、対応に5分以上とられると、けっこう後々大変である。そもそも、私は午前中を電話を受けたりかけたりする時間にあて、午後にかかってくる電話には、数人の、緊急度の高い人以外は出ないようにしていた。そうしないと、仕事が終わらない。
この日、クボヤマさんは、よほどいい「発明をしそうになって」いたようで、適当に話を切り上げても、15分もしたらまたかかって来る。それも、また新たに考えるらしく、「こうやったら実現しないかな」みたいな電話がかかってくる。
小一時間くらい時間を消費させられ、ちょっとこれ以上は無理という段階になったところで、さすがに、命の恩人兼専任鍼灸師兼親友のクボヤマさんであっても、これは言わずばなるまいと思った。
「※あのね、クボヤマさんはたぶん知らないと思うけども、世の中には仕事ってのがあってね」と言ったら、さすがにバカじゃないんで大笑いして、「ゴメン、ゴメン」と言って電話を切った。
私が私なんで、友だちにはバカみたいな連中は多いけれども、私が中途半端なせいか、しっかりした、ゴリッとした本格的なバカはほとんどいない。
※で始まるセリフは、大がひとつでは足りない大親友のタダオちゃんにも一回言ったことがある。シチュエーションも大同小異。※の固有名詞以外はまったく同一。反応も同一。
タダオちゃんの電話もこれ以外にも相当にヘンなことがあって、「ハイ、替わりました」と言った瞬間笑い出し、一分間くらい笑い続け、一分間笑ったあと「ヒー、ヒー」という苦しげな呼吸音が続き、息が整ったあとにやっと要件になったことがあった。つまり、私に最大限効きそうなおかしな話があって、私の声を聞くまではがんばってがんばって笑いをこらえて、私の声を聞いた瞬間、その緊張が解け、爆発したんだろう。
まあね、仕方ないね。類は友を呼ぶって、お釈迦さまも言ってるからね。あっ、これ冗談だから。お釈迦さまは、そんなこと言ってないと思う。たぶん、だけど。
「善良さ」が一番1007
無教会派のキリスト者・内村鑑三の業績(?)で私が一番評価しているのは、内村をからかおうとして、知人が「お宅の女中さんは、キツネを拝んでますぜ」と言ったのに対し、「そうだ。だから、彼女は善良なんだ」と返したことだ。これは「とは言ってもスピリチュアル系1005」に書いた。
なにが言いたいかと言えば、こういうことである。
ちゃんとした神さまだったら誰でも拝めるだろう。偉いんだから、その対象を拝むのはあたりまえのことだ。でも、キツネをすら拝めるという、その心性のほうが、私には優れていると思えるということだ。
わかりにくいよね。こう言えば、わかっていただけるかな。拝む対象よりも、拝むという行為のほうが尊い。
さらに、こう言えばおわかりいただけるかな。拝むという崇高な行為があるから、神や仏は存在できる。
「とは言ってもスピリチュアル系1005」で、私の母が信奉する大野先生の話をした。私の守護神である霊神さまのお話もした。
このことを総括してみる。
私の父は、38歳のときに、精神病院に収監された。それから母は、薄バカの小学2年生(残念ながら、私のことだ)、もっとバカの幼稚園児(妹ね)を抱え、和服の仕立業で入院費を稼ぎ、子どもたちを育てた。立派に育てた。子どもたちはあまり立派にはなれなかったが、でも、立派に育てた。
これは、母には、大野先生や霊神さまがいたからである。もうちょっと正確には、母が大野先生に帰依し、また、母に霊神さまを拝むという善良さがあったからである。
母よりも、私は、いろんな宗教書を読んでいる。だから、法華経の行者である大野先生が霊神さまを奉じるのは、天地垂迹説であると知っている。素人ではあるが、神学も、それなりには理解しているとも思う。でも、母のような、力強い「善良さ」の前では、知識などなんの足しにもならない。
イマニュエル・カントは、「最高善の実現のためには、神の実在が『要請』されねばならない」とした(『実践理性批判』)。これには、理論、理性によって神の存在を証明することは、いかなる方法でも不可能であるという前提がつく。
カントはぎりぎりのところで[神]に言及しているわけである。
もちろん、『実践理性批判』のカントを私は評価しているが、でも、こういった思惟よりも、私の母や、内村家の女中さんの信仰のほうが数段優れていると私は信じる。
内村家の女中さんはいざしらず、そういう信仰に支えられた母の奮励努力の結果、私はいま、こういう世迷いごとを書いていられるのである。だから、こういう一見「蒙昧」に見える信仰を、私は馬鹿にはできないと常々考えているのである。
歳をとっていいこともある1008
私らの年代の人間(私は現在75歳である)にとって、年寄りと言えば、なんといっても松永安左エ門だ。明治8年生れで昭和46年没だから、96歳まで生きたことになる。たいしたことないじゃないかとお思いかもしれないが、キンさんギンさんのデビュー前の話であり、当時は爺さん中の爺さんだった。松永安左エ門は「電力王」と言われていた著名人である。
週刊誌で、インタビュアーが「年を取って、いいことってありましたか」と聞くのへ、松永は「あるぞ。嫌な奴がみんな死にやがった。ワッハッハ」と答えた。私はそれを読み、「なんてジジイだ」と思った。ああ、「ワッハッハ」は私の創作で、追加である。
私も、60歳くらいから、いいことがあった。偉い人を、それほど偉いと思わなくなったのである。もうちょっとちゃんとした言い方をすれば、「絶対視することなく、相対的に見られるようになった」という感じになる。
ちょっと、それを具体的に言ってみる。
ああ、ナツメくんね。いいヤツだよ。真面目だしね。面倒見もいいし。頭だっていいし。
でもさ、あいつ面白くないんだよ、一緒に酒飲んでてもおんなじようなことばっかり言っててさ。そらあ、たまにはじけることもあるよ。酔っぱらって、ボッチャンなんて、池に飛び込んだりさ。あれは面白かったな。でも、そんときだけだな。あとは、たまーに冗談言っても、あいつ、冗談もなんか暗いんだよね。
ちっちゃいころ養子に出されたもんだから、そのあたりで人格変わっちゃったのかね。
あいつの墓参り行ったことある? 墓石見たらさぁ、戒名がなんだかやたら長いの。女房とおんなじ墓なんだけどね、女房の戒名もなんだか長いの。あんな長い戒名、ほかんとこで見たことないな。
こんな感じ。
ヤナギダねえ。オレ、あいつ苦手。確かにもの凄い仕事やったし、業績は評価するっきゃねえけどさ、なんだかあいつの言うこと、わかりにくいんだよな。文章は平明なんだけどね、でもわかりにくいの。論理的な言い方してないからだな。あれ、わざとだよ、たぶん。
そのくせ、てめえはけっこうちゃっかり欧米の理論は勉強してるんだぜ。やだねー。だけど、自分で書くものは、なんだかまだるっこしいってえか、遠回し遠回しってえか、あんまりスカッと論理的じゃないの。オレ、あいつの文章読んでると、小さな女の子が数珠玉つなげて遊んでる姿、連想しちゃってさ。イライラすること多いんだよな。
もう一人いってみる。これは相当すごい。
ヨハネによると、半分神さまみてえなやつなんだけどな。だけど、マルコに言わせると、けっこうヘンなやつでさ。あいつが講演会みたいなのやってるとこに、おふくろさんと、兄弟、姉妹が訪ねて来たんだよ。あいつ、しばらく実家に帰ってなかっただろ。親切な人が、「おかあさんと兄弟の方がみえてますよ」って教えてやったんだ。
そしたら、あいつ、なんて言ったと思う。「母、兄弟とはだれのことだ」だぜ。しかも、おまえ、言うにこと欠いて、講演会に来てる人たちを指して、「私の母、兄弟はここにいる」だぜ。おっかさん、可哀そうに、泣いてたってよ。
今回の始めのほうで、「絶対視することなく、相対的に見られるようになった」と申しあげた。それに沿って、ちょっとエンターテインしたが(面白くなかったら、ゴメン)、私は夏目漱石も、柳田国男も、もちろんイエスも、それなりに尊敬しているし、好きな人たちだし、気になる人たちではある。ただ、やみくもに絶対視をしないようになったということである。
お釈迦さまも、「中庸がよろしい」とおっしゃっている。これはホント。間違いなくそう言ってる。
【Live】卵宇宙(ゆで卵のつくり方)1009
7日は、我がシェアハウスのおばさんは、わが友青ちゃん、イノウエさんと、最寄り駅の隣の隣の駅近辺で麻雀をやっていた。当然、昼食時におばさんはいない。私はのんびり、のびのびとカレーライスを食った。おばさんが普段座っている席にふと目をやると、その右に週刊誌の切り抜きがあった。『週刊文春』の平松洋子さんの記事である。平松さんは、食に関して、私が絶大な信用を置いている人だ。
タイトルは「卵ビッグバン」。今回の表題は、これのモジリである。昔読んだ宇宙論の本に「卵宇宙」とあったので、そうした。
さて、
① 鍋に卵を入れ、鍋底から1cmの高さまで水を加えて中火にかける。
② 水が沸騰したらフタをして、中火で4分間加熱。火を止めたら、蓋をしたまま5分おく。(黄身をトロトロにしたい場合は3分おく。)
③ 卵を冷やしたら完成。
これは、『週刊文春』そのまま。「フタ」≠「蓋」もそのまま。
「黄身をトロトロ」は半熟ってことで、「5分」だとハードボイルドになるってことなんだね。
ただし、「4」と「5」に斜めに線が引いてあり、おばさんの字で「3」と書き込みがあった。試してみて、「3」のほうがよかったのだろう。
このやり方は、同記事によれば、農林省の公式X(今年二月十六日更新)に<時短! ゆで卵を茹でずに作る方法>として掲載されていたものだという。ここでも「ゆで」≠「茹で」はママ。
こんなんでできるの? とお思いかもしれないが、平松洋子さんは、「結論から言います。もう今後はこれでいきたい」ときっぱりとおっしゃっている。
さらに、おそらく「これ」をやる半月前に、友人のワダさんとおしゃべりしているときに、蒸篭(平松さんは電子レンジを持っていない!)で肉まんを蒸す際、わきににんじん、じゃがいも、キャベツ、ブロッコリー、ぶつ切りのねぎ等を入れ、肉まんと蒸し野菜を一気につくると言ったところ、ワダさんは、「卵を入れると、12分くらいでいい加減にできる」と開陳。
平松さんは、蒙を啓かれた気分だったと言う。
昼飯のカレーは、本日青ちゃんとイノウエさんにウーバーイーツをやるために、昨日つくったものである。ウーバーイーツ用には昨日中に詰めたので、早い昼飯を済ませ、戦地に赴いたおばさんも、その後食べたおじさんも、その後の私も、青ちゃんとイノウエさんの余りものをいただいたことになる。
その際、もうひとつ詰めたものは、本日(9日)、飲み会のときに、我が畏友その1にウーバーすることになる。
50年目の『ヨーロッパ退屈日記』1010
最寄り駅の隣の隣駅で、一時間余りコーヒーでも飲んで時間をつぶさなければならないはめに陥ったことがある。今年の7月あたりのことだ。私は、読むものがないと時間がつぶせないタチなので、真ん前にある書店で本を買い、それからコーヒーショップに入った。
買った本は『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三)。50年ぶりの再読である。
「『ダニーボーイ』について、私が知っている2、3のこと0510」に次のように書いたので、確かめようと思ったのだ。
アイルランドでも禁酒法が施行されていたことがあり、アイルランドの旅館に併設されているパブなどでは、こんな法律が施行されても、まったくお構いなしに酒が供されていたという。ここがまず、とてもいい。
そこで男たちが当然、夜、酒を飲んでいると、遠くのほうから、『ダニーボーイ』の朗々とした歌声が聴こえてくる。それが近づくと、男たちは、卓上の酒を隠す。ほどなくして、重々しいノックが聴こえ、ドアが開けられ、村でたった一人の警官が顔を出し、「まさかとは思いますが、酒などを供してはいないでしょうな」と言いながらパブを一回りし、「よろしい。結構、結構」と言い、戸口を出ると同時に、また『ダニーボーイ』を朗々と歌いながら去っていく。次のパブへと向かうのだろう。男たちは、歌声が遠ざかると、また卓に酒を出し、飲み始める。これが「いい」のとどめである。
この話の締めに、伊丹十三は、「民度が高いというのはこういうことだ」という意味のことを書いていたと思う。
これを読んだのは50年前のことなので、ここも記憶違いで『ヨーロッパ退屈日記』ではなく、別の著書中だったかもしれない。
私も、半世紀前(!)のことなのでさすがに自信がなく、最後に言い訳をしている。言い訳しといてよかったよ。まったくの間違いである。でも、「別の著書中」は間違いない。でも、これも間違ったらどうしよう。
そこでは、まことしやかに、「この話は、ピーター・オトゥールに聞いたのではないか」と書いた。また、『北京の55日』の撮影中、アイルランド人で、差別に敏感なオトゥールが、やはり差別される東洋人である伊丹に親切にしてくれる話もしたが、『ヨーロッパ退屈日記』にピーター・オトゥールは、一か所くらいしか出てこない。だから、これも間違いだったことになる。でも、これらも伊丹十三の著作で読んだことは間違いない。
もうひとつ、『ヨーロッパ退屈日記』には是非ともお話ししたいことがあった。しかし、ディテールにまったく自信がなく、前回『ヨーロッパ退屈日記』のお話をしたときには触れなかった。
次回は、そのお話を。
今度は、現物を読みながらだから、間違いはない。