
大正時代 大正デモクラシー (2)
第二次護憲運動(1924);政党内閣制を無視した清浦内閣打倒して、加藤高明内閣成立.→「憲政の常道」=憲法に基づいた政治を行うのは原則である
○1916年、吉野作造が「民本主義」を唱える.「政党内閣制」と「普通選挙」の実現を説く.
★政党内閣制の実現;国会で多数を占める政党が内閣を作る.立憲政友会の原敬内閣が、「我が国最初の本格的政党内閣」
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五・一五事件の犬養内閣で崩壊.
★普通選挙の実現;原内閣の時、衆議院議員選挙法改正=直接国税3円以上を納める25歳以上の男子.
1925年;加藤高明内閣の時、普通選挙を実現.選挙人口は4倍になった.ただし「治安維持法」も成立.
1924年に起きた第2次護憲運動では高橋是清、犬養毅、加藤高明らの護憲三派が連立して、政党政治を無視した清浦内閣を倒しました。次に成立した加藤高明内閣は1925年に(普通選挙)法を成立させ(納税)の制限を廃止しました。これによって(二十五)歳以上の男子が選挙権を持つことになりました。選挙人口はそれまでの(4)倍になりましたが、(女性)には参政権はありませんでした。また同時に(社会主義)運動や思想を取り締まる法の(治安維持法)も制定しました。
政党内閣制とは議会で多数を占める(政党)が内閣を作るという制度で、立憲政友会の原内閣から、五・一五事件の(犬養毅)内閣まで続き、それ以後は戦後になるまで再び行われませんでした。
明治の後期から大正時代になってデパート、美容院、看護婦、タイピストなど女性の仕事場も生まれ、社会進出して働く職業婦人が増えました。こうした社会情勢の中で女性の地位向上を求める運動が起きました。
1911年に雑誌「青鞜」を出した(平塚らいちょう)は、同紙に「原始女性は太陽であった。」と発刊の序文を書き女性の権利獲得、地位の向上を目指しました。1919年には(市川房枝)らと協力して「新婦人協会」を設立し婦人の参政権の獲得などを目指しました。
農村では小作農たちが地主に納める(小作料)の減額などを求める小作争議が活発化し、1922年には(日本農民)組合が結成されました。都市では明治後期に先駆的な(労働運動)がおきました。賃金の値上げなど待遇改善を求める(労働者)は工場の数が増加するとともに増えて行きました。大正時代には全国的な組合も結成されました。
明治の1871年に(解放令)が出され、それまで差別されていた人々も平民となりましたが、政府は積極的な政策を打ちださず、就職や結婚などに差別が残っていました。彼らも自ら差別を無くそうと立ち上がり1922年京都で(全国水平社)を設立しました。
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