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一人だけど、一人ではいられない。

気学の師匠である村山先生は、仏教にも大変詳しい方で、多くのことを教えてくださった。今日はご存命だった時に収録された「仏教塾」の動画を拝見した。昔直接聞いた時のままの、優しくて、ユーモアたっぷりな先生が画面の中におられて、まるで目の前でお話してくださっているような気持ちになった。

仏教への信仰が篤いミャンマーで、私は彼らが祈る姿に感銘を受けていたが、先生曰く、祈りは原始仏教にはない概念だという。インドで生まれた仏教に近い教義をミャンマーでは継承していると思っていたが、全くそのままの姿ではないということなのだと感じた。祈れとも、自分を信じるようにとも、お釈迦様はおっしゃらなかった。お釈迦様がおっしゃったのは、人として生きるために大切なのは「諸行無常・諸法無我」を通して「涅槃寂静(心穏やかに、平穏に、煩悩のない状態)」を目指すことである、ということだった。

涅槃寂静の状態をずっと続けることは本当に難しい。どんな状況さえも全てプラスに捉える人間力を鍛えて初めて、その状態に近づくことができるからである。中でも「無我」の状態は特に難しい。なぜなら「人は他者との縁によって何者かになり得る(一人では何もできない)」ということ、そして「自分の願いは自分一人の力では叶えられない」ということを知ることが大切だからだ。「人の願いを聞いて叶えることしかできないんです」と先生はおっしゃった。たしかにその通りである。自分が目指すこと、願うことばかりを口にしても、究極のところ、自分は無力な存在である。こうして一人で生活していても、電気やガスが通っている部屋を私が自分で準備できたわけではない。食べ物や日用品だって、誰かが作って、流通させてくれたものをいただいている。自分一人で生きている、なんて考えそのものが、傲慢に満ちているのだと感じた。「一人だけど、孤独ではない」という感覚は、一切への感謝なのだと思った。

今こうして一人の時間を持っているからこそ、亡き先生からの言葉は強く私に響いてくる。私は誰かの願いに耳を傾けていられるだろうか。自分の願いばかりに縛られていないだろうか。もっともっと、自分自身を磨きなさい、生かされていることに感謝して、より良い人間になる努力をしなさいと、先生から言われたような気がしてならない。亡くなってからも変わらず、先生は私たちに多くのメッセージを送ってくださっているのだと感じる。

先生、出会ってくださってありがとうございます。

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