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真逆の教え

今の私は「考えずにボーッとすること」「自分がいたい世界が変わらないのならば、目の前の目標は変わっても構わないこと」「何だか分からないけどやった方がいいと思ったことはやること」を大切にしている。しかし、小さい頃から父に言われてきたことはその真逆だったことにふと気づいた。「ぼやっとしない」「初志貫徹」「根拠を示せ」…随分窮屈だっただろうと、かつての自分を振り返っている。

10代の頃、私は「早く大人になりたい」と思っていた。自分のやりたいことを自由に決めてやるためには、親に許可をもらわなくてもできる年齢まで待たなければならない。やりたいこと、行きたいところがあっても、お金を出してくれるのは親だし、親が許可してくれなければ行動は起こせない。本当に残念なことに、私が興味を持ってやりたいことや行きたいところは、親のそれとは全く違っているのを感じていた。父は特に、家族が自分の思い通りにならないとすぐ声を荒げて罵倒する人だったので、自分の好きなことや大事にしているものを侮辱されて傷つきたくなくて、私はずっと自分の気持ちを閉ざしてきた。

しかし、大学に入って20歳をすぎても、大学を卒業しても、社会人になっても、経済的自立を除いて、父との関係は変わらなかった。私の願いと父が私に願うことは違っていたし、お互いにその違いを認められなかった気がする。私が決めたことに賛成してくれたことは、仕事にせよプライベートのことにせよ、ほとんどなかった。

でも、私が自分自身に向き合うことを始めた時から、少しずつ状況が変わり始めている。自分の声をきちんと聞けていなかったとっくの昔から、父の願う人生を生きることで自分が幸せになれるなんて1ミリも思っていなかったのに、傷つくことを恐れて言えないまま今まで来た。今の私は誰に嫌われたとしても、自分らしく生きると決めている。どんなに父の機嫌を損ねたとしても、私はきちんと、自分がどこに向かいたいのか、あの手この手で伝え続けなければならないのだろうと思う。

父が私を従わせようとしたのは、自分の想定の及ばない世界に私が行ってしまっては、私を助けることができないと思っていたからだ。しかし私は厄介なことに、ずっと小さかった頃から、親に守ってもらおうと思って生きていなかった。一人で生きていけないことは分かっているけれど、自分にできることは極力自分でやる、と決めていた。だから、私を何とかしたいと思う気持ちが親心だったのかと分かるまでには、かなり時間がかかった。

今日は父の日。私は今、父から教わったことの真逆を実践し、自分史上最高に自分らしく生きる日々をすごすことができている。でもきっと、真逆の体験をさせてもらったからこそ、今の自分がよりしっくり来ているのだと思う。その意味では、この父でなければこの私にはなり得なかった…とも思うのだ。

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