待つことの定義
新型コロナウイルスの影響で、売り上げが落ちてしまったお店のケーキを注文し、今日商品が届いた。私の大好物、ガトーショコラ。早速いただいた。こんなこともなければ、静岡にあるレストランが作ったお菓子を買おうなんて思わなかっただろう。他にも色々、サイトで気になった商品は注文していて、今後も続々と届く予定だ。
今、世界中のモノの流れが滞っている。今回注文したケーキも、注文から1週間経って手元に届いた。これまでだったら1週間なんて待てなかった気がする。でも不思議に、どこかで待つことを楽しんでいる。私以外の多くの人がそんな風に感じている気がする。
これまで私たちは、オーバーフロー状態の中にいたのかな。ふとそんなことを思った。モノがあふれすぎ、手っ取り早く手元に届きすぎていたのではないだろうか。同じ価格のものなら、早く届いた方がいい。送料がかからない方がいい。そんな基準でいつしかモノを選ぶようになっていたのは否めない。商品が届くことを楽しみに待つ余裕は、家にいて初めて生まれる。毎日朝から晩まで家を空け、留守中の不在届にイライラさせられていたら生まれない感覚だと思った。全てのスピードがスローになって、作り手の事情や顔が見えるようになり、初めて「急ぎませんよ、届くの楽しみにしてます、応援してます」と言えるようになった気がする。
これからの世界では、こういう「顔が見える経済の流れ」がもっともっと生まれてほしいと思う。地域ごとの小さな単位で、ほどほどにモノが流通し、買う側も売る側も顔が分かる、そんな仕組みになるといいと思っている。時計を巻き戻すこともできなければ、こうなる前の状態を再現することもきっとできないだろう。ならばこれまでより良い世界になる動きをしたい。
日本中自由に行けるようになったら、今回注文した商品の生産者をたずねて回りたいなぁ、なんて考えている今日この頃なのである。