旅の効能
今年は動き始める年、と勝手に位置付けている。
年末年始は北海道の友人宅で過ごし、次は地元の広島へ3年ぶりに帰ることにした。実家には帰らないが、会いたい人は他にもたくさんいるし、行きたい所もある。
去年までの引きこもりは何だったのかと自分でも思うほどだが、久しぶりに動いてみて、ハッキリと分かったことがある。
私は動いて、流れていなくては、澱んでぼやけてしまうということ。
つまり、自分自身の心と、住環境をスッキリさせるためには、自分自身が動くことがとても大切、ということである。
海外出張する仕事から卒業したことで、ここ数年は家にいる時間が自然と長くなった。前から片付けは不得意だが、部屋を片付けられない、整理整頓が進まない自分を直視しなくてはならない日々にほとほと嫌気が差していた。にもかかわらず、部屋を快適に保つためのがんばりが効かない。それは私の場合、ずっと家にいて、動かなかったことが一因だったのでは、と思う。
動かない生活を続けていると、いつも見ている風景に違和感がなくなる。いざ片付け始めても「捨てる」「手放す」というアクションが起こしにくくなっていた。分かっているのだ、もう何年も着ていない服があったり、使っていないものがあることは…!でもそれをどうにかするエネルギーが湧いて来なかった。
北海道へ旅に出る前から掃除は始めていて、正月休み中もやろうと決めていた。しかし、思い切った手放し方が出来るようになったことに気づいたのは、北海道から帰宅した後のことだ。
旅行中、持ち歩けるものは決まっている。私の場合、仕事の出張と個人旅行で明らかに違うのは、仕事の場合はもしもを考えて色々余分に持ち出すが、個人旅行の場合は本当に着るもの、使うものしか基本的に持たないようにするところだと思う。
ましてや寒い時期の移動は着るものもかさばりがちだ。どうしても持ち物選びがストイックになる。そんな意識で過ごして、自宅に戻ってみた時、普段手に取らない、すなわち使わないものの存在が、これまでよりはっきりと見えるようになった感じがしたのだ。何というか、持ち物と心が見えない糸でがんじがらめになっていた状態から、チョキチョキと糸をハサミで切り離せるようになったような…。なぜこれまで縛られていたのかさえも思い出せないほど、淡々と、長らく所在に困っていたモノたちを手放せるようになっている。
そんなわけで、広島から戻ってからの片付けは、さらにスピーディーになると思う。本当に必要で、置いておきたいものだけを残して生活しようと決め続けた先には、今よりずっと心地よい暮らし方や生き方が待っている気がする。そのためには家にこもって片付けることと出かけること、私にとってはどちらも大切な行動なのだ。行動し続けた先の自分が、とても楽しみである。