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祈ることは信じること

私がミャンマーに住みたいと思っているのは、日常に祈りの場が身近にあり、心から落ち着けるからである。パゴダに行く度、ここで祈ることと呼吸することは同じくらい当たり前のことなのだと感じていた。経済成長著しい今、かつてよりはずっと信仰が薄れたとも聞くけれど、それでも事あるごとにミャンマーの人たちはパゴダをたずね、祈りを捧げる。そこで自己対話し、時には困りごとを僧侶に打ち明け、また日常に戻っていく。

何かに対して祈るのは、対象となる何かを信じているからだ。信じる力は様々な場面で人の心を強くする。初めてミャンマーに行った時、私が感じたのは、ミャンマーの人たちの強さだった。自分自身が信じる「何か」を絶対に譲らない強さ。頑固な人たちだとその当時は思っていたが、今思い返すとそれは「心の強さ」の表れだったように思う。

信じる力は自分を律する力になる。仕事で出会ったあるミャンマー人のビジネスマンは、お坊さんと約束して「4本足の動物の肉は食べない」と決めたのだ、と打ち明けてくれたことがある。人ひとりが誓いを立てたからといって、世界が突然良くなったり、良いことが起こったりするわけではない。しかし、その誓いを守ることは、確実にその人の人生を変える力になっていく。お坊さんとの約束とはすなわち、自分との約束なのだと思った。その誓いによるメリットを図るのではなく、その誓いに基づいて自分を律することができるかどうか。よく「できるかできないか、ではなく、やるかやらないか」と言われるが、まさにそのことではないかと思った。

ここ数日、記事にしたいことも浮かばず、何となく自分の限界を感じていた。毎日何も考えないことだけに集中する時間は極力作るようにしていたが、なかなかひらめきも降りてこない。それでもただ座って、心を静めて集中を続けたとき、ふいに「信じる」という言葉が口をついて出てきた。たしかにそれまで、書きたいことは浮かばなかったし、ひらめきもなかった。でも、私は疑うことなく、何も考えずに座り続けることをやめなかった。私が私自身と約束したことは、回り回って私の力になるのだ、と実感できた瞬間だった。

祈る対象は人によって違う。宗教上、習慣上の違いもあるだろうが、人に危害を加えるものでなければどんなものでも構わないと私は思う。それを信じ、それに向かって祈り続けることで、それを信じ切れる自分の心を強くし、自分の人生を切り開いていく力をつけていく。信仰の本質はそこにあるのではないかと私は考えている。

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