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これからやりたいことに「なぜ」はいらない

全ての物事にはそのようになる理由がある。往々にして私たちは、理由を掘り下げて検証し、引き起こされる状況をより良いものにしていこうとする。これがいわゆる「カイゼン」につながるのだと思うし、その積み重ねが今を作っていると感じることも多い。

これまで自分が何をして、今から何をしていくのかを考え始めるのにも、やはり「なぜ」そうしてきたのか、「なぜ」そうしたいのかを考えている。しかし、最近私自身は極力、「なぜ」を投げかけ、掘り下げるのは、あくまで過去のこと、すでに結果が出ていることだけにしている。

将来何になりたいか。それはなぜなのか。小さい頃から必死に考えてきて、今があるわけだけれど、振り返ってみた時に「なぜ」という言葉には自分が思っていた以上の拘束力があったのだと感じるからである。この問いかけに何度手を、足を止めて考えさせられてきたことだろう。ここで説明し切れないことを、何度断念しただろう。思えば過去に私が「やりたい」と思っていたことの多くは、「なぜ」をうまく言葉にできないものばかりだった気がする。「今はなんかよく分かんないんだけど、とにかくこれをやってみたい!」といって押し切ることができず、相手(主に親)の顔色を伺って、納得してもらえるような理由をつけられるよう、知らず知らずのうちに、願い事のスケールダウンをしていた。自分の気持ちを伝えることよりも、相手に理解してもらえるかどうかが優先だった。自分の本来の願いは、きっと理解してもらえない。応援もしてもらえない。そう思っていた気がする。

今振り返るとその思いは、自分自身を信じる気持ちの弱さから来ていたのだと思う。誰に説明するわけでもないのに、やりたいかどうかではなく、出来るかどうかで考えがちになるのは、自分のことを著しく信じていなかった、あの頃の名残なのだろう。今年に入り、心も体も立ち止まってみたことで、前ほど自分の気持ちをおろそかにすることは少なくなったと思うが、それでもまだ、かつての自分が今の「やりたい」という気持ちに水を差そうとすることがある。自分らしくいたい、そのためにはこんな風に生きていきたいと、果てしなく妄想する自分の裏側で、そんなことが出来るのか?と訝しんでいる自分がいるのが分かる。

長らく付き合ってきた自分の心ぐせは、どんなに様々な学びを経ても、無かったことには出来ない。縛られていた時間が長ければ長いほど、解放されている状態に違和感を感じてしまうものなのだと思う。でも、それもまた自分の一部であり、排除したり無視するものではないとも感じている。無くそうと躍起になるより、有ると分かったうえで、新たな心の習慣に意識を向けることだ。そうやって自分の心の中にある「違い」を共存させることが、「違い」を尊重しあう社会につながっていく、そう信じている。


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