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ある日、ミャンマー食材店で

現場が変わり、ミャンマー食材店の近所になった。仕事帰りに時々立ち寄って、のんびりと物色しつつ、店主と世間話をする。

まだ日本語でしか会話は出来ないけれど、今とっているビルマ語の講座が終わる頃には、何かしらビルマ語で話しかけられるようになりたい。

クーデター以降、政情が不安定なのはもちろんのこと、経済的にも大きなダメージを受けているミャンマー。リトルヤンゴンと呼ばれるこの地域にも、以前のようには食材が届かなくなっているという。ミャンマー国内で取引される商品がひっ迫しているために、ある時にあるだけ、まとめて買い占めておかなければならないそうだ。日本から細かく選んで発注できなくなったと、店主も頭を抱えていた。

「たとえこの店にある商品が全部売れたって、自分がもし死んでしまったなら、儲けをあの世に持っていくことなんてできない。軍は既得権益にしがみついて、今回のクーデターを起こしたのだろうが、どんなに偉くても、権力を持っていても、死んでしまえば皆同じ。こんなことをしたって何の得にもならないのに。情けないリーダーだ。犬以下だ。」

店主の言葉には、怒りを通り越して「人間として情けない」という、軍への哀れみにも似た感情が滲んでいた。

店主の言葉はあくまで軍に向けられたものだったけれど、はっとさせられるものがあった。ふと、今この瞬間私は、何を握りしめて生きているのだろうと思った。死んでしまったら何一つ、これまで積み重ねてきたり、ため込んできたものなど、持っていくことはできない。生まれる時も死ぬ時も、人は一人だ。死ぬ時にいたっては、肉体すら手放してこの世から去るのだ。今握りしめている何かが大きくても小さくても、どんな価値であっても。

一度ぎゅっと何かを握りしめて、それを手放すまい、失くすまいと持ったままにしていると、手の中で形が変わってしまい、そもそもそれが何だったのかが分からなくなってしまうこともある。大事にしていたものでも、時と共に形や価値が変わっていくことだってある。状況の変化に合わせて、何を握っているのかを確認するためには、少し手の力を緩めて、手の中に何を持っているのかを見る余裕が必要なのではないかと思う。

店主とのやり取りでミャンマー情勢に思いを馳せたつもりが、思いがけず、自分自身が大切にしているものや、失くしたくないものの棚卸をすることについて考えさせられることになった。私にとってミャンマーは「魂の故郷」。かの地で起こっている出来事は、私にこれからをどう生きるのかをも問いかけている…と考えるのは、何一つ大げさなことではないのかも知れない。

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