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面倒で複雑だけど、人生を面白くするのはやっぱり人間関係、なんだと思う。
最近、お世話になっている方とちょっとした口論になった。口火を切ったのは私の方で、私の言葉にその方の感情が逆なでされたような感じだったのではないかと思う。普段、人と争うことを極力避けているのに、自分を分かってくれている人、という甘えがきっとあったのだろう、その場でも謝罪したが、それからもしばらく、言葉と伝え方に無防備だった自分自身を反省した。
口論の原因になる話題が、その方との間で見解が異なることを、私はそれまでのコミュニケーションから分かっていた。しかし、その方と話す前にたまたま別の集まりで、自分の意見に賛同する人たちばかりと話していたこともあり、つい口をついて出てしまったのだろう。この件に関しては、自分の意見の正当性をいくら主張しても不毛な議論になるだけ、ということも分かっていた。なのに、相手の逆鱗に触れてしまった。でもどこかで、この見解の違いをあいまいにすることそのものが、お互いにとってどこか「不健全」だと感じていたのかもしれない。
この「不健全」な感覚でつながる人間関係は、改めて独立の連絡をしていると、思いのほかあるこということに気付かされている。つながっているようで実はつながっていない。あの人に、と浮かぶ人も当然いるが、浮かんだ瞬間「今じゃない」と思う人もいたりする。連絡がサッとできる関係だから必ずしも良好、ということでもない気がする。どの人とも、ある種の「健全」な関係でいられるとスッキリするのに、と思ったりする瞬間もあるが、それはすなわち、0か100か、友達か無関係の人かといった、無味乾燥な選別を連想させる。人間関係はそんなに簡単に定義できるものではないし、面倒なことも多いが、その難しさと面倒臭さのなかに、人生の面白さがあると、私たちは何となく知っているのではないかと思う。
どんなに面倒で煩わしいと思っても、私たちは一人で生きていくことなど出来ない。私たちの日々の生活は、自分の考えの及ばない、無数の人たちによる仕事と貢献によって成り立っている。私の頭に浮かばない、世界中の何十億人という人たちとも、見えないところで何かしらつながっていると考えれば、そもそも人と人とのつながりに健全も不健全もないのだろう。
考えてみれば、口論をした方とも、その話題以外で話すことはとても楽しいし、その方とのコミュニケーションを通して私自身の気持ちが整理されていく経験もたくさんしてきた。ここが合わないからもう会わないとか、話さないというつもりはない。人間関係とは様々な出来事を越えて変化していくもの。その方との関係も、この事件を通して新たなより良い形につながっていくのはもちろんだが、それと同時に、他のご縁ある方との関係もまた、より良くなるのではないかという気がしている。
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