Plaza de Mayoの記憶 その3:アルヘンティーノの愛国心
今回は、アルゼンチンにとって、非常に大きな傷となったテーマについてお話します。1976-83年、20世紀最後の軍事独裁政権の時に起きた出来事です。
五月広場には、「マルビナス諸島」までの距離を示す小さな道標があります。
「小さな」な道標なので、これが重大なことに関することなのかと不思議に思うかもしれませんが。。。レティーロ地区の広場に、主要な立派な記念碑があります。
道標に近づいてみると、島々のシルエットが見えてきます。
アルゼンチン沿岸から約500km、南大西洋に浮かぶ島々のシルエット、これがマルビーナス諸島です。
1982年の4月から6月にかけての戦い、1870年以来 アルゼンチンが積極的に参加した唯一の紛争が、このマルビナス諸島で行われました。
この紛争については、インターネットや様々な出版物で多くの資料があります。ご興味がある方は、是非そちらもご覧ください。
私は、広場でガイドをしているつもりで、出来るだけ簡潔にお話したいと思います。
このマルビナス諸島での紛争は(イギリスではフォークランド紛争と呼ばれています)は74日間続き、両陣営で900人以上の命が奪われました。
この頃、アルゼンチンは軍事独裁政権でしたが、自国民に対する異常な犯罪(拷問、レイプ、大人や子供の誘拐など)をしていると非難され、深刻な政治的・経済的危機に陥っていました。そこで、軍事行動によって政権強化を図ろうと考えたのです。
1978年、アルゼンチン と チリ (ピノチェト将軍の軍事独裁政権)は、軍隊を動員し国境をめぐっての戦争を始める寸前まで行きました。これは結局実現しませんでした。
しかし、その4年後の1982年にアルゼンチン軍は、1833年に英国に占領され149年間 実効支配されていた南大西洋の島々に上陸し、占領したのです。
このことは世界を驚かせました。
しかしアルゼンチンでは、この4月2日から数日間、いつもは抗議デモを行う場となっていた「五月広場」に、何千人もの人々が押し寄せ、アルゼンチン軍が南太平洋の島々を占領したことを祝ったのです。この島々の所有は、アルゼンチンにとって長年の願いだったのです。
1965年の国連決議(2065号)では、両国に主権問題が存在することを認め、その解決に向けて両政府が対話に入ることを促しました。しかし、この国連決議があるにもかかわらず、アルゼンチンは、外交ルートを通じて島の領有権を取り戻すことができなかった、という歴史的な背景があります。
基本的にアルゼンチンは、1816年の独立時に、マルビナス諸島、南サンドイッチ諸島、サウスジョージア島も、他の領土と同様にスペインから「継承」した自国の領土であると常に主張してきました。
これに対して英国は、アルゼンチン独立以前から同諸島には英国人の存在があったとしており、そして現在の島民は、どの国に属するかを決める権利を有すると主張してきました。島民の大多数は英国系で、英語を話しています。
英国のマーガレット・サッチャー首相が、島の支配権を取り戻すために軍隊を派遣することを決めたことが分かると、その時大統領職にいたガルティエリ将軍は、カサ・ロサダのバルコニーから、大勢の人々の前で、
「来たいなら、来ればいい、相手になろう」
“Si quieren venir que vengan, les presentaremos batalla”.
と酒焼けした声で、歴史に残る言葉を発したのです。
そして、イギリス軍が来ましたね。。。
それも、アメリカ、NATO、チリ(4年前の敵)の直接支援を受けて。。。
イギリスは第二次世界大戦以後、最も強力な艦隊を送り込みました。
アルゼンチン軍は激しく抵抗をしましたが、イギリス軍の上陸から2ヵ月半後に降伏することになります。
降伏の3日前には、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が「平和を求める」ためとしてアルゼンチを訪れました。つまりアルゼンチン人に、差し迫る降伏のための準備をするようにということだったのです。
アルゼンチン軍の降伏が分かると、人々は再び、五月広場を埋め尽くしました。
今度は政府の退陣を要求し、政府の臆病と無益を非難しました。
このデモ隊に対し、軍は激しい弾圧を行い、多くの負傷者や投獄者を出しました。この時、ガルティエリ将軍は民衆の要求に応じてバルコニーに出る勇気はなかったのです......。
戦時中の写真集のリンクです。
マルビナス紛争がもたらした大きな傷は、社会にも、生還した人々にも、亡くなった人々の家族にも、外交関係にも、40年後の今なお血を流し続けているのです。
軍事政権以前、何十年にもわたり 島の住民と関わり、1970年代には英国から「主権の移行」についての新しい提案が始まっていました。。。
それらの努力は、軍とその支持者によって打ち砕かれてしまったのです。
BBC(英国)は、紛争から40周年を迎える2022年、戦争について、興味深い連載を作成しました。その中の一つ、アルゼンチン人の意見を紹介したもの(英語)をリンクしておきます。現大統領アルベルト・フェルナンデスの発言も含まれています。
https://www.youtube.com/watch?v=6h5Wrm3a_8o&list=WL&index=11&t=16s .
島のステッカーを貼った車、Tシャツ、タトゥーなど、全国の市町村、道路、広場、競技場、博物館、学校。。。さまざまな場所で、島の名前を目にすると思います。
数年前、この画像を使った紙幣も発売された。
一つはっきりしている事は、アルゼンチンがこの島の領有権を諦めることはないということです。
1994年に改正されたアルゼンチン憲法にも、「島の主権が確立されるまで永久に領有権を主張する」という条項が加えられています。
現在、アルゼンチンはマルビナス諸島をティエラ・デル・フエゴ州、南極大陸、南大西洋諸島の一部とみなし、その主張は国連の脱植民地化特別委員会や様々な国の支持を受けています。
4月2日(アルゼンチン軍上陸の日)を「マルビナス戦争戦没者の日」として、祝日にしています。
そしてアルゼンチンは、あらゆる国際的な場において、外交ルートによる交渉の開始を要求し続けているのです。
この諸島に住む人々 - アルゼンチン人と先住英国人、彼らは紛争以前はこの地域の海藻の一種ケルプにちなんで"ケルパー"と呼ばれていましたが、今は自分たちを”フォークランド人”と呼びたがっています - 彼らに、この紛争は予想外の「利益」をもたらしました。
この数十年でGDPが大幅に増加し、現在ではスイスを上回ります。漁業や石油探査の許可(アルゼンチンは違法としている)を与えられ、40年前には考えられなかった経済・社会状況を手に入れました。
島民が、自分たちが住んでいるこの土地で戦争を始めるだけではなく、深刻な経済問題や高い貧困率、そして常に危機的な状況にあるアルゼンチン国の国民になることを、受け入れるはずがないのは明らかです。
また、この島々には重要な常設軍事基地があり、英国は南大西洋の航行と南極への領有権主張のための戦略的ポイントとして利用しています。
要するに、地政学的な位置と天然資源を持つ島々は、英国が中期的には手放し難い植民地(イギリスは、この島々を海外領土と呼ぶことを好んでいる)なのです。
そして戦争に勝ったことにより、”長期的”な視野を持つようになったのです。
この40年間のフォークランドの変遷を説明したBBCのリンクです。https://www.youtube.com/watch?v=cVFfR-ZwG3U&list=WL&index=21 .
五月広場は、戦争中、重要な「政治的」舞台でありました。
最初は政府を支持し、次に拒否する主要なデモがそこで行われました。
アルゼンチン全土に、戦った人々に敬意を表する記念碑、モニュメント、元戦闘員センターがあります。
読者のみなさんがブエノスアイレスを歩けば間違いなく遭遇するはずです。
だからこそ、私は、この問題について話したかったのです。
Sr.Jokoのスペイン語原版