今、かんじること。
東日本大震災から今日で6年。
あの日私は、実家のあるいわき市に居ました。
食器は床に散乱、家族で食べる物もない…。暗くなってくる時間帯に、とてつもない不安に襲われたことを覚えています。
夜になっても繰り返される余震に、親が「あとどれくらい続くの?」と聞いてきたこと。
大学で地球科学(地形学)を専攻していた私は、あと1ヵ月かもしれないし、1年続くかもしれない…。そんなことを考えていたこと。
…でもそんな不安を煽るようなことは、言えなかったこと。
今でも鮮明に思い出します。
あの時はまだ、原発事故であの綺麗だった浜通りの町が2011.03.11で止まってしまうなんて予想もできませんでした。余所を心配する、そんな余裕なんてなかった。
あの日から今日で6年。あっという間でした。
当時大学生だった私は社会人になり、いまこうして仙台に住んでいます。
震災の爪痕は、海辺に写真を撮りに行ったとき、住んでる地域の区画整理の開始時期、そして仕事の受注の切っ掛けなど、折に触れて見せつけられます。
仙台からいわきの実家に帰る道、浜通りを縦断する国道6号線を通る機会も増えました。
国道6号線は、あの時の原発事故のまま、時が止まっている町も通ります。
何年経っても、あの日のまま。散乱したガラス、砂埃を被ったマネキン、今にも倒壊しそうな建物…
国道6号線を通るたびに歯がゆい思いをしてきました。
ああ、あの頃は本当にいい街だったのに。
そんなことを考えながら悶々としていたある日、原発事故で役場機能移転を続けている町に関わる仕事が、うちの会社に舞い込んできました。
その時、私はまだ社会人2年目になりたてだったのですが、無理を言って、その仕事に携われるようにしていただきました。
あの時からずっと感じている歯がゆい思いを、エネルギーに変えて仕事を進めてきました。
が、ミスもあったり、知識不足だったり…、
色々なところでクライアントに迷惑をかけているな…と反省しきりです。
『あとどれくらいでこの町は元通りになる? ならない? なる? いつ? 私は生きてる?』
そんなことを考えさせられる切っ掛けが増えたことも事実です。
でも、日々葛藤していくうちに、その疑問がこの町の方位磁針なのかなと思うようになってきました。
風評被害もあります。帰還することなんてまだまだできないような、線量が高い地域もあります(そこはもちろん立ち入り禁止だけど)。
私も心無い同期から、『君の実家。あんなところは人が住むところじゃない』と言われたことがあります。
福島県で起きたことは事実です。でも、過去の一部にこだわって、そこを掘り返し続けることは、賢明ではないと感じます。
県や町の過去すべてを事故で語りつくす必要はないのです。
そろそろ前を向いて、歩けるようになってきているんです。
そして町も、浜通りも復興には道半ばですが、いつか元通りになることを祈って、自分が日々邁進し続けたいと思います。
浜通りにあの頃の穏やかな幸せが、また訪れますように。
いまからまたがんばっぺよ。
2017.03.11
追記:あまり推敲していないので、読みづらいとは思いますが、お許しください。