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【疑問】ナミビアの砂漠のADHDお姉ちゃんにいったい何人の若者が共感するのだろうか?

久々に映画館に足を運び、以前予告で見かけた「ナミビアの砂漠」を鑑賞することに。
そんな話題だったっけ?と思うほどに劇場はほぼ満席。期待値を上げて鑑賞を始めるも、がっかりして帰路に着くことに。

現代を生きる若者の代弁者的な映画と見てとれるが、大人たちに現代の若者はみんなこうなのかと思われるのであれば、同じく現代を生きる若者(といっても間も無くアラサーですが...)としてはいささか不服である。主人公らに1mmも共感出来ず、見ていてイライラしてしまったのだ。


この映画で若者を理解した気になるなと言いたい。

主人公の様な境遇に生まれていないし、共感出来ないのは私が恵まれている証拠だろう。
と言えども、成人を迎えておりながらも彼氏に「お水飲んで〜」だの「ご飯ちゃんと食べた?」など面倒を見てもらっている主人公はあまりに稚拙であると失笑してしまった。幼少期にトラウマを抱えており、精神発育に遅れが見られるのは承知だが、サロンの社員として働いており一定の社会性を有していることは客観的に見て取れるものであり、私には共感の余地がない。何故、私は雇われているから社会的存在意義がある、立派な存在なんだとポジティブな解釈が出来ないのだろうか?この様な解釈は心の支えとなるはずなのに...。どんな仕事だろうとニーズがあるからお金が発生するのであってそれは胸を張って良いことである。
職業に貴賎なし...私の好きな言葉です。

また、元彼氏も風俗に行った事を馬鹿正直に話したり、今彼氏も腹を割った話をせず喧嘩になっても「ごめん」と平謝りだけをし続けるなど、何故その様な悪い選択をし続けるのかが理解できない。不器用を超えてただの馬鹿である。主人公以外にも共感出来る人物が登場しないのだ。嘘も方便という言葉がある通り、円滑な関係を築くための嘘“White lie”が世の中には存在しているのに。
強いて言えばサロンの生意気な後輩は、自分のペースと言葉で飾らぬ態度をしていたのは好印象である。

この様な境遇に生きるもの、不器用で社会で燻っている若者は、恐らく社会に多く存在する事だろうし、そのようなマイノリティ的存在に焦点を当て、社会の一部として受け入れようとする考え、ムーブメントには賛成である。しかし、昨今はそのムーブメントが少々行き過ぎている気もしているし、そのような存在が若者全体であるかの様な表現をしてしまっている気がしている。(Z世代のあるあるといった形で)。最近のメディアや大人達は若者を不幸にしようとし過ぎていないか?

先日ペンタックスブランドでフィルムカメラの発売がリリースされた。テレ東bizのニュースには「若者に8万のカメラなんて買える訳ない、今どきフィルムカメラなんて日本が貧しくなった証拠だ」といったコメントが散見された。馬鹿にするなと言いたい。確かにバブル期の様に散財しまくれる訳ではないが、便利な商品に溢れた現代では豊かに暮らしている者も多いはずだ。むしろ不便さを敢えて楽しむ余裕すらあると思う。
ポリコレしかりマイノリティに目を向けすぎて、多くのポジティブな部分をおざなりにしている気がしてならない。

私がこの映画に求めたであろう結末は、この主人公が今後どの様な選択をし結論に辿り着いたかをキチンと描く事。主人公に共感した者が、己の人生の道筋を描いていくヒントになるのであれば映画の存在異議が見出せたのだが、ただ「こういうのあるあるだよね〜、大変だよね〜」で終わってしまった事が1番の不満であり、この映画が「若者よ、不幸であれ」と言っている様に感じてしまったのである。

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