サバハ~神はどこにいるのですか?

Netflixの映画、サバハ観ました。
サバハ、娑婆訶と書くらしく、円満に叶うという意味らしいです。
O.K.ぐーくる。

面白かったです。
ジャンルとしてはホラーサスペンスになるのかな。
テンポもよかったし、結構恐怖感もありました。

うおっ!!!
とずり落ちそうになったりしましたし。

ではネタバレしていくので、観てない人はここまでで。

 

私と同じ日に「それ」は生まれた。
「それ」を殺しておくべきだったと皆は言った。
「それ」は今も生きている・・・。

少女のナレーションから物語ははじまります。

少女の家には何かがいます。
少女と同じ日に生まれた何か。
「それ」
それに気付いた巫女が、その正体をしるため、「それ」が閉じ込められている小屋に向かおうとし、逆にヘビに襲われます。

「それ」を少女の祖父母は恐れて暮らしています。
少女の姉である「それ」を閉じ込め、「それ」におびえながら・・・。

主人公はインチキ宗教の欺瞞を暴くことを仕事にしている牧師。
牧師とは言っても、今は教会では働いていません。
インチキを暴くことでお金を稼いでいます。

正義感からしているというよりは、ビジネス感がハンパない。
信仰もゆるーくなってる感じ。
今回彼が目をつけたのは仏教系の新興宗教。

その団体は信者から献金を受け取っていなかったのです。
彼に言わせると、「信者から金をとらない宗教などない」ということで、間違いなく何かしらのインチキがあるはず、なんだそうで。

友人の僧侶の知識もかりつつ、その団体の調査に入ります。
ちゃんと調査員も送り込み済み!!
「仏教系の報酬は桁違い!!事務所に空気清浄機を買うぞ!!」
やる気満タンです。

その頃、トンネルで少女の遺体が壁の中からみつかります。
中学生くらいでしょうか。
コンクリートで壁に埋めこまれていたのです。

コンクリートのミキサー車を運転していた青年が家に帰ります。
母親が言います。
「友達を呼んでいたのなら言ってくれたらいいのに」
母親が作っていた料理を食べていた人を見て青年は固まります。
青年と年の変わらぬその人を見て。

二人は穏やかに外で話をしています。
家を訪れた青年を「広目天様」と青年は呼びかけます。
持国天、そう青年もその人に呼びかけられます。
そして青年はあの子達を殺すことに耐えられ無かったと泣きます。

「何かが間違っているのではないのでしょうか?」と。
でも、広目天と呼ばれたその人は優しくさとします。
「我々は悪と戦っているのだ」と。
そして「死んで下さい」と青年にいうのです。

青年と広目天は二人静かに何かの経典を唱えるのでした。

少女の死体を調べていた検死官はお札と小豆を食道から発見します。
「こんな死体を前にも見たことがある」と検死官は報告します。

牧師の新興宗教の調査は進んで、彼らが仏ではなく四天王を信仰していることを知り、特殊な経典を使っていることまで理解しました。
そして、女子中学生殺しに新興宗教がどうやら関わっていることも。

その頃、持国天、そう呼ばれた中学生殺しの犯人の青年は、警察の目の前で飛び降りて死にます
自分は正しいことをしたんだ、と母親に告げた後でした。

そう青年は苦しみながら少女達を殺していたのです。
そうしなければならなかったから。
正しいことのために。
そしてそのために自分の命も絶ったのです、

牧師は警察官の姉から女子中学生を殺した犯人の情報を得ます。
そこには少年刑務所にいたことが記されていました。

そして、手に入れた教団の経典についても理解していきます。
どうやら善と悪の戦いがあるらしく、邪悪な蛇が最後に殺されることをそこには預言されていました。

蛇とは一体?

車が少女の元へむかっています。

言葉さえ教えられることなく、閉じ込められ、泣き続けている「それ」に怯える暮らしをしている少女の元に、広目天とよばれたあの青年が向かっていたのでした・・・

その頃牧師は経典を書いた教祖の正体をしります。
高名な高僧で、チベットの高僧達からも認められる、「本当に仏の域に達した者」といわれいましたが、ある時期から消えてしまったのでした。

生きていたなら106才。
さすがにもう生きてはいないでしょう。

少年刑務所でその教祖が4人の父親を殺した少年達を見つけ、養子にさえしたことを牧師は知ります。

刑務所へ向かう途中、調査員に牧師は聞きます。
「その高僧が本物だとしたらどうおもう?」

調査員は答えてます。
「神様なら生きている」

牧師は苦く笑います。
そして「友人」の話をします。
アフリカへ宣教師として向かい、異教徒に妻や子供を殺された「友人」の話を
異教徒のわずか13才の犯人は殺した理由を「神の意だ」と言ったと。

「俺はわからない。神様は俺達がこんなに苦しんでいるのにどこで何をしてるのか」
牧師は吐き捨てるように言います。
友人の話?
本当に?

牧師は神を疑いもなく信じてはいないようです。
神様はとうして何もしてくれない?
こんなにくるしみがあるのに。

広目天は少女の家にやってきました。
どうやら少女を殺すつもりです。
小屋に閉じ込められた「それ」は青年の気配に反応し、言葉にはならない言葉を呟き始めます。

少女も怪しい気配を感じたのですが、少女に広目天が襲いかかる前に小鳥たちがガラスを突き破って飛び込んできたのに驚き、広目天は家を逃げだしてしまいます。

「それ」が住む、犬達の檻がならぶ小屋のその奥にある、その部屋に広目天は引きつけられるように向かいます。

そして、ドアの下にある食事を与えるためだけの穴から、中を覗きこみ、広目天は「それ」を見て悲鳴をあげます。
そして、逃げ出したのでした。
「それ」は人間ではなかった。
なかった・・・。

怯えた広目天は教団の本部へむかいます。
ひそかに広目天をつけていた牧師も後をつけます。
牧師は教祖が養子にした4人の青年達に少女を殺させていたと確信していました。
4人に四天王の名前を与えて、少女達を悪である蛇だとして殺している、と。
でも何を基準にして選んでいる?
何のために?
それがわからなかったため、妄想だと警察に取り合ってもらえなかったのです。

広目天は本部に着きます。
そこは鹿が放し飼いにされる園でもありました。
そこで、お世話係の男に誘導され、「養父」である教祖と対面します。
医療機器につながれながらも、教祖は生きていました。

「本当間違っていないでしょうか」
やはり少女を殺すことに躊躇う広目天にお世話係の男は諭すように言います。

「悪魔に惑わされてはいけません。世界の灯火が消される前に蛇を消し去るのです」
お世話係の男はそう言ったあと、教祖の口もとに耳をよせました。

「愛している」
そう教祖の言葉を伝えます。

酷い父親を殺した少年にはじめて慈愛の腕で抱きしめてくれたのは、教祖でした。  
教祖だけが、本当の父親だったのです。


広目天、その名前をくれた人を救うために、広目天は少女のもとへむかいます。
途中、自分を尾行していた牧師の車をぶつけて止めて、そして少女の資料をとりもどして。

牧師は教祖に会ったことのあるチベットの高僧になんとか合って話しをききます。
高僧は教祖は「本物」だと断言します。
そして、その教祖に預言を告げたのだといいます。

教祖を殺すものが教祖が生まれた100年後に生まれる、と。
その後、教祖は姿を消したのでした。
おそらく、その敵を殺すために。

牧師はまともに取り合ってくれない警察を説得するために、経典にかかれた数字の謎を解こうとします。
ここに少女達を選んでいる理由があるはず。
少女達の共通点。
それがわかれば、警察を説得できます
 

そして、調査員が気付きます。
これは住民登録番号だと

そして、牧師は広目天の車でみた少女の資料を思い出します。
その年に、その場所で生まれている。
少女の元へむかいます。

そして、クリスマスの街を通り過ぎるとき、牧師は気づいたのです。
この住民登録番号のいみを。

警察に牧師は電話をかけます。
教祖が産まれてから100年後の教祖の生まれた土地の少女達を教団は殺してきたのです。
10年に渡って。
教祖を守るために。

クリスマスに生まれたキリスト。
キリストが生まれたとき、王が生まれたという預言に怯えたヘロデ王はベツレヘム一帯の赤ん坊を殺します。
自分に成り代わるものがいないように。


殺されたりいなくなった中学生達は全員、同じ年の生まれなはずだ。と。
殺された少女達の資料を捲る警察官は凍りつきます。
その通りだったからです。

でも、その時、もう少女は広目天に捕まっていました。
広目天はもう迷いません
この少女がどんなに甘い言葉を吐いても。
この少女は蛇なのですから。

でも少女は言いました。
「私が死なければならないなら、私がと一緒に生まれた悪鬼も殺して」
広目天は止まります。

あの恐ろしい「それ」を見たから。でも蛇は美しくあまやかであるはずだ。
あれはそうではない。

でも「それ」が違うことを感じていたからこそ、広目天は「それ」がいる小屋に向かうことにしたのでした。

少女を縛ったまま置いて。

ここで悩むんですよ。
どっちが蛇なの?って
どちらも、同じ日に生まれてるから条件は一緒だし。
それに「それ」がいろんな怪事件を起こしたようにも見えるけど、常に少女もそのちかくにいたわけだし。
少女は綺麗な目と甘い言葉で自分ではなく「それ」に向かうように誘導したし。

蛇、もしかして、少女?

広目天は小屋の扉を開けました。
長く開けられることのなかった扉を。
鎖に繋がれた「それ」

しかし、「それ」は異形ではあっても美しい姿をしていました

教祖と同じ「本物」である印である6本の指を持ち。

「それ」は静かな声で美しい目を広目天に向けて優しい声で言います。

「遅かったな。沢山死んでしまった」
言葉を知らず放すことさえなかったそれが。

広目天は戸惑いながらも、殺そうとします。
だって、美しく甘い。
蛇なのです。
教祖を殺す。

「お前は誰だ」
それでも問うてしまいます。

「私は苦しむ者と一緒に泣くものだ」
「私はお前の乳だ」

そして遠い昔、母親がうたってくれた優しい歌を「それ」は歌ったのでした。

混乱した広目天は「それ」に聞きます。
「何が望みですか」

「それ」は答えます。
「お前の父親代わりの印を確認しろ。そのものが蛇なのだ。そして殺せ」と。

広目天はさらに混乱します。

広目天を追ってきた牧師達は途中で広目天を捕まえます。
広目天は混乱したまま、「それ」の存在について語ります。
そして、牧師達をふりきり、教団本部の教祖の元へ。
機械に繋がれた教祖の指を確認します。
それは普通の人間の指でした。

「あなたはだまされたんですよ、蛇に」
お世話係はそう言って、広目天を象のいる小屋に連れ出します。
そして、象と広目天を何故か撃ちます。 

牧師も本部に忍び込んでました。
牧師はお世話係が教祖に何かささやき、教祖の機械を外すのを観ます。

そして知るのです。
このとても40までにしか見えない男が、106才であるはずの教祖であることを。

「本物」
そう、教祖は肉体を超える存在になっていたのです。
本物の印である、6本の指。

自ら自分の敵を止めるために教祖は「それ」の元へむかいます。
牧師も瀕しの広目天を車に載せておいかけます。

そして、本物の教祖を止めて問い詰めますが、流されてしまいます。
しかし、その間に教祖の車に乗り込んだ広目天は、教祖の運転する後ろから教祖に襲いかかり、車を転倒させます。

ですが、車が転倒しても教祖は平然と車から立ち去ろうとするだけでした。
「それ」を殺しに行くのです。
自分を殺す「それ」をころして、永遠にあるために。
沢山の少女を殺して自分だけは生き残ろうとした教祖が。

死にかけた広目天がその脚をつかみますが、もう、力はありません。

でも、
「掴め」
彼に離れた場所にいた「それ」が命じました。
彼はつかみます。

広目天の掴んだ手はすぐに離されてしまいますが、零れた燃料をズボンにつけただけでよかったのです。
「それ」が広目天に渡したものがありました。
古い古いライターです。

広目天は火をつけました。

教祖は火に包まれます。
叫びながら燃えていきます。

そして、離れた場所にいた「それ」も弱っていきます。

牧師は広目天に駆け寄ります。
苦しみながら、でも正義だと信じて沢山の少女達を殺した青年に。

信じていたものが愛したものが全て嘘だった青年に。
青年は何か、つぶやきました。

そして、自力で拘束を解いて帰ってきた少女は「それ」をみつけます。
姉であった「それ」を。
「それ」と教祖は同時に息絶えました。
「それ」の死体を抱きしめて、少女は泣きました。

広目天ではなく、ただの哀れな青年は「寒い」とだけ言って亡くなります。

牧師は問います。

「神よ、あなたはどこにいるのですか・・・」

これで物語はおわります。

長かった!!
ネタバレ書き疲れた。

とにかく面白かったですね。
ホラー映画なのに「神はどこにいるのですか」がテーマなのはすごい。

それにめちゃくちゃミスリードさせられるんですよ。
少女達を殺す、広目天達はたしかに悪なはずなんですが、もしかしたら・・・本当に少女達は人間ではないの?とか

「それ」が「蛇」っぽいけど、実は少女が本当は「蛇」なんじゃないの?
とか。

そのミスリードはものすごい大事。
見ている私達も「殺しても仕方ないみたいなことあるんかも」みたいに思わさせられてしまうから。

苦しみなから青年達は少女達を殺していきます。
愛する養父を守るためであり、正義のために。
父親を殺した少年だった彼らは、その罪を贖うように、今度は少女達を殺していくのです。

仕方ない。
沢山の人達を救うためだから。
仕方ない。
そう歯を食いしばって。

「コイツら死んでも仕方ないよね」
みたいな感覚さえ持たない青年達が。

でも養父は。
自分の敵をほろぼすためだけに、罪のない少女達を殺させていたのでした。
そう、まるでキリストが生まれたことを恐れ、沢山の赤ん坊を殺させたヘロデ王のように。

「龍が蛇に変わった」そう、人々を救う者であったものが、人々を苦しめる存在に変わったのでした。   
本人にして見れば、自分が生き残った方が沢山の人々を救える、と考えているのでしょう。

「神様はどこにいるのか」がテーマだと言いました。

では神様はどこにいたのでしょう。

少女達が殺されている時に。
青年達が苦しみながら騙され少女達を殺しているときに。

この映画は仏教系に見えてキリスト教の話をその中に含んでいます。

「それ」は教祖を倒すものとして生まれました。
生まれてすぐ、「殺しておけばよかった」と言われる存在として。

疎まれ、鎖でつながれ、汚い小屋に閉じ込められ、家族である人達から怯えられながら、言葉さえ教えられずに生きてきたのです。

青年がくるまて言葉さえ話さなかった。

隠されたまま。

出生届さえ出されていなかったのは、敵から隠れ逃れるためには必要なことだったのかもしれません。

「私は共に泣くものだ」
「それ」は言いました。

「それ」は殺された少女達のためにだけではなく、苦しみ続ける青年達のためにも泣くものでした。

汚い異臭のする明かりさえない場所に閉じ込められた、「それ」は泣きつづけたのです。
自分のためにではなく。

これ、キリスト教です。
これ。

「私が苦しむ時、あなたはどこにいるのですか」
神に人は問います。

神はいます。
答えはあたえられなくても。
一緒に苦しむものとして。

「それ」はキリストそのものです。
キリストは捕らえられ、鞭打たれ、嘲りの中、十字架に手足を釘で打たれて、脇を槍で突かれて、殺されます。

「神」であるのに。

教祖は沢山の人を救える自分こそが「神」だと思っていたはずです。
より沢山の人を救えるものこそが。

それは神の意として、異教徒を殺した少年と変わりないのです。

違うのです。

苦しむ人間の、苦しみのその中に共にあるものこそが・・・「神」なのです。
ずっといたのです。
苦しむ人達の苦しみと共に。
誰よりも苦しんで。


マリアに抱かれるキリストのように、少女は「それ」を抱きしめます。
あれは・・・ピエタやったんやね。

【ピエタは聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことである(by Wikipedia)】

めちゃくちゃ、キリスト教的なお話やった。

そして、少数の犠牲は仕方ないということへの反論でもありました。
「間違っているのではないかと・・・」
そう少女を殺した青年は呟きます。

まちがっているんです。
犠牲に成り立つものは少なくとも正義ではないんです。
それを正しいと言えるのは、教祖のようにそうすることが自分の利となるものだけです。

神よあなたはどこに?

それにこの映画は応えています。

苦しむ者と共に苦しんでいた、と。

それが正解なのかは別として。

神は都合よく救ってくれるものではありません。
少数の犠牲になりたつものが正義では有り得ないように。

でも、苦しみに寄り添って、苦しみは苦しみのまま、悲しみは悲しみのまま共にあれるものがあるのなら、それは救いになるのではないか、そうおもいます。

サバハ、思いの外深かったです

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