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【道楽コラム】坂本龍馬と道楽・上

本日11月15日は、坂本龍馬の誕生日にして命日です。昨年の同日には、龍馬に関して4本のコラムを配信しました。

今年は、道楽舎を立ち上げて迎えた龍馬の誕生日にして命日ですが、私たちが小説や漫画で知っている龍馬像は、間違いなく「道楽家」です。本当のところはどうかは知りませんが(笑)そんな龍馬の人物像から、「道楽家」とはどんなものかを検証していきたいと思います。

龍馬の幼少時代

勉強も運動もあまり得意ではなく、いつも花を垂らして泣いていた龍馬を、乙女大姉がいつも守っていたそうです。寺子屋でも、先生が匙を投げるほどで、乙女姉さんが、龍馬の先生のようになり、読み書きを教えたり、龍馬に紐を結び、川で泳ぐ練習をしていたという有名なエピソードもあります。

龍馬は今でいうADHD(多動性症候群)だったのではないかと言われています。興味があることにはとことん飲める込めることができても、興味がないことはどうしても集中することができなかった。現代においても、中々理解されなかったりしますが、当時においてはただの落ちこぼれ、ノータリンだと思われても仕方なかったのでしょう。

でも実はここに、既に龍馬が「道楽家」である素養があります。

「道楽家」は、ある意味他の人には出せないものを生み出す力があります。それは、人それぞれ違いますが、ADHDだと言われる龍馬の、ここぞという時の集中力は、尋常ではありません。その集中力の使い方次第では、他の人には真似できないようなエネルギーとなるでしょう。

剣の道を学んだ青年前期

歳を重ね、龍馬は県道に没頭します。土佐国でもトップクラスに強くなり、江戸留学に行くことができました。桶町にある「千葉道場」で当時の江戸三大流派の一つでもある「北辰一刀流」を学び、免許皆伝にまでなりました。

そして、1853年、ペリーが来航する「黒船襲来」があり、龍馬も黒船を見たそうです。いや、近眼だったので、はっきりとは見えなかったかもしれませんが。

当時、争いが少なく、刀は無用の産物になりかけている中、人を殺すことが目的ではない「剣道」に身を寄せ、けんを通じて己の心身を鍛えていたそうです。それもあり、道場には、幕府は倒すべきという「倒幕派」や、海外の猛威を祓う為の「攘夷派」など、様々な派閥に分かれました。今でいう「コミュニティ」の爆誕です。己の思想や、我が国(藩)を守る為、議論を交わし、どう生きればいいかを、集まって話し合っていたそうです。龍馬ももれなくそのうねりに飲み込まれていきます。

時代のうねりに巻き込まれた青年中期

人の意見に流される人、自分の思想を貫くもの、様々な人と関わっていく中で、龍馬は運命の出会いを果たします。それは、開国派である売国奴「勝海舟」です。千葉道場の若頭で、勝を暗殺線と殺気立つ重吉さんに連れられ、勝海舟の元に出向く。勝海舟の元には、何人もの刺客が訪れるが、すべからく論破され、誰も勝を暗殺することはできないかった。

話を聞いていて、理解できない重吉さんは、刀に手を掛けますが、興奮と場を収めるために龍馬は、「弟子にしてください!」と頭を下げ、勝の弟子になったそうです。勝の話は、ガチガチの佐幕派(幕府派)の千葉重吉さんは理解できなくても、「国(藩)」という縛りの薄い龍馬は、勝が語る、まだ見ぬ世界の話を、ストレートに受け取ることができたんだと思います。だからこそ、弟子入りをしたのですが、思いはどうあれ、暗殺しに行ったのに、弟子入りするとは言語道断です。しかし、どういう状況にあっても、人に左右されず、自分の意思と自分の判断で、龍馬は物事を決めました。「判断基準を自分に置く」というのは、「道楽家」の条件でもあります。

日本の夜明けに向けて洗濯致し申す青年後期

龍馬は、土佐藩のガチガチな制度に嫌気がさし、脱藩します。そして、勝海舟と共に、「神戸海軍操練所」を立ち上げ、龍馬は勝海舟のまさに「馬」として、東奔西走しました。幕府や有力藩の主要人物から出資を募ったり、協力を仰いだそうです。しかし、その海軍操練所もお取り潰しになり、勝と龍馬は離れ離れになってしまう。そこで龍馬は、日本初の株式会社である「亀山社中」後の「海援隊」を設立し、商家の出だったこともあってか、オランダの豪商トーマス・グラバー(フリーメイソン)の後ろ盾もあり、商人志士と言うべき独自のスタンスで活動する。

大まかに言えば倒幕派だった龍馬は、犬猿の仲ながら幕府に対抗しうる薩摩藩と長州藩の「薩長同盟」を締結させる。その最中、脱藩浪士であり、幕府に仇なすものとして命を狙われることあり、かの有名な「寺田屋事件」では、手の親指の動脈を切られ、瀕死の状態になる。薩摩藩によって助けられたが、命を張って助けたおりょうとは、これを機に結婚し、日本人初のハネムーンもすることになる。

波乱の人生に幕を閉じる晩年

「薩長同盟」によって、実質倒幕の準備は整ったものの、腐っても幕府。簡単に倒せるものではありません。龍馬の考えは、幕府を倒すということよりも、戦によって疲弊した「日本」を、外国の餌食にさせないこと。そのためには、戦争を起こしてはいけない。その為の唯一の策が「大政奉還」でした。ほとんどの志士が、自分の思想や、国(藩)のこと、徳川家への恨みによって動いている中、土佐人、薩摩人、長州人という国(藩)という枠組みではなく「日本人」として欲やしがらみなく、日本のことを考えていたのは、龍馬を含め数人だったのでしょう。15代将軍・徳川慶喜は、1867年10月15日、この案を飲み、江戸幕府を終わらせました。このまま戦を起こさず次なる手を考えて動いている中、大政奉還から1ヶ月経った11月15日、龍馬の誕生日、近江屋に身を隠していた龍馬を凶刃が襲い、明治の夜明けを見ることなく、暗殺されてしまいました。

時代の流れは、倒幕派、佐幕派、尊皇攘夷派、公武合体派などなど、時を追うごとに複雑になり、またことあるごとに風向きは変わり、どの勢力が勝つのかわからない時代の中で、龍馬はその時その時に、必要な動きをして危機を切り抜けたり、敵とも手を組むこともありました。しかし、龍馬が打った一手一手は、敵だったものを味方にもすれば、味方を敵にすることにもなりました。黒幕は薩摩藩の西郷隆盛説が有力ですが、国(藩)の利益を考えない龍馬の存在は、邪魔だと思う人がいたのは事実でしょう。

結果的には、戊辰戦争が起こったものの、「江戸城の無血開城」などがあり、小規模の戦で済んだ為、「日本」という国を守ることはできました。龍馬が命を賭して守ったのは、土佐藩でも幕府でもなく、「日本」だったのでしょう。

下巻へ続く!?

ということで、龍馬の人生をざっくりと振り返って、龍馬の「道楽家」らしい一面を紹介してまいりました。まだまだ語りたいことがあったので、今回のコラムを「上巻」として、次回「下巻」をお送りしてまいります。


実は、今日は貫徹しちゃったんですよ。でも、やぁぁぁっっっと仕事に一区切りついて、眠いながらでも指が絶好調で(笑)、一つのコラムにするには長すぎたので、上・下に分けてお送りしますが、下巻はかなりディープな内容になっているので、ぜひ楽しみにしていただければと思います!

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