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耳が聞こえないことは不幸か?

耳が聞こえないということだけでなく、よく人は「可哀想だね」と言ったりします。この言葉って、上から目線で好きじゃないんですよね。特に嫌いなのは、私は牡蠣が苦手なんですけど、そう言うと「えー!!絶対に人生損してる!」って言いやがる奴いません??あれ、ほんとムカつくんですよね(笑)だって、損してるなんて微塵も思ってないし、食べられた所で、それだけだし。別に、強がってなんかないんだからねっ!

要は、「可哀想だね」って言う言葉は、自分の価値観の押し付けなんですよね。相手は、微塵もそんな風に思ってなかったりするかもしれないじゃないですか?

とある耳が聞こえない「ろう者」6人に、

「もし耳が聞こえる「聴者」になれる薬があったら、飲みますか?」

こんな質問をすると、意外な答えが帰ってきました。

「飲みません。ろう者の方がいい。」

と。
これは、一人だけではなく、全員がそうでした。質問した飲むにしても、「1時間だけでいい」とか、耳が聞こえるようになりたいと思う人はいませんでした。

元々聴者で、病気によって耳が聞こえなくなってしまったら、それは一時的には不幸で可哀想だなとは思えますが、生まれつき「ろう者」の場合は、「聞こえないということ」が普通なんですよね。表現方法が違うだけの、同じ人間です。むしろ、言葉で表現しない分、ジェスチャーや表情による表現は、「聴者」以上ではないかと思うのです。

日本で唯一、手話のみで授業する学校があるのですが、そこの生徒は、皆生き生きしていて、とても元気で表情も豊かです。思いを伝えるために、「言葉」と言う手段ではなく、「手話」と「表情」によって、「言葉」以上に伝えているのです。そして、喋れなくても、とっても「おしゃべり」なのだそうです。

部分的な欠損があったとしても、結局それを補うものが育まれて、トータルバランスで言えば差はないのではないかと思います。聴者だからとか、ろう者だからとか、健常者、障害者だから良い悪いというものではないと思います。

まぁ、聴者である私がろう者のことを語るのはおこがましいかもしれませんが、私たち聴者よりも、よっぽどろう者の方が立派だと思います。

身体的な欠損だとわかりやすいですが、形ではない精神的なもので言えば、誰もがどこかしら欠損してるようなもんですよね。ろう者が立派であるのは、「耳が聞こえない」というマイナスの部分を、他の誰でもなく自分自身が受け入れて、それこそが自分だとしていることだと思うんですよ。

障害を持つ人が全てそうではないかもしれませんが、障害があろうが無かろうが、無い物ねだりをしたり、欠損を嘆くのではなく、認めて受け入れた上で、「それが自分」と思えたら、どんな状態であっても魅力全開になるのではないでしょうか。

『聲の形』と言うアニメーション映画があって、私のコラムサイト「神アニメランキング虹見式」で取り上げているのですが、この作品は、耳が聞こえない女の子を巡って物語が展開していきます。この作品も神アニメで、一見の価値が大アリです!
ぜひこちらのコラムも見てみて下さいね!

聲の形 誰もが胸に突き刺さる、思春期の苦しみを描いた名作
https://zero-animelife.com/koe-no-katachi

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