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忘年会という呼び名は「労年会」にした方がいい

忘年会シーズンに送る提議

昨日は、今年初の忘年会でした。私は個人事業主で幅広く仕事をしているわけではないし、地元でもないので、忘年会は一、二度あるかないかです。

もう既に何件も忘年会をしている人もいるかもしれませんが、「忘年会かぁ」と呟いた時に、一つの違和感を覚えました。そもそも、なぜ「忘年会」という名前なんだろうと。

以前、飲食店の店長をしていた時は、12月は忘年会シーズンということで、「忘年会」という名前を当たり前のように考えていましたが、「道楽家」になって初めて迎えた忘年会。今までとは違う捉え方ができたのです。


忘年会とは

皆さんは、この時期に当たり前のように参加している忘年会について、どこまで考えたことがありますか?

一説によると、鎌倉時代、室町時代の頃に始まったと言われていて、一年の終わりに、飲めや歌えやの宴をしていて、その様子が「としわすれ」のようだと言われ、江戸時代に頃には、上層階級の中で一年の憂さを晴らす行事となり、明治時代には「忘年会」として定着してきたそうです。

そして、「忘年会」とは、
「一年の嫌なことや苦しかったことを忘れて、気分を一新して新年を迎えよう」
という認識ではないでしょうか?

私もそう認識していました。しかし、「道楽」に生きる者にとって、「嫌なことや苦しいことを忘れる」ということは、道楽に反します。嫌なことも苦しいこと受け入れて、向き合っていく。マイナスの部分を受け入れた分、プラスの部分も大きくなります。

つまり、「辛い、苦しいこと」を忘れるということは、プラスの部分も失くしてしまうことなので、平たく言えば、「勿体ない」のです。
物事は「表裏一体」なので、どちらか一方を得ることはできません。
詳しくはこちらを参照してください。


「忘年会」ではなく「労年会」に改名すべき!

ということで、1年間頑張ってきた中で、大変なことも苦しかったことも沢山あったと思います。良かったことも嬉しかったこともあったと思いますが、それは、苦労したからこそ、幸せを感じられるものです。言うなれば、出汁の入っていない味噌汁のようなもの。砂糖の入っていないケーキのようなもの。全く辛くないカレーのようなものです。伝わってますか?(笑)

だったら、「忘年会」という名前と認識で、一年のせっかくの努力の汗を忘れてしまうのではなく、受け入れて「労う」ことの方が大事だと思うんですよ。

私は常々「"せい"を"おかげ"に」ということを提唱しています。上記に食べ物を例に出しましたが、「美味しい」と思うには、空腹である必要があります。不足を感じ、満たすからこそ、美味と幸せを感じるものです。
なので、嫌なことを"せい"にするのではなく、その"おかげ"にすることで苦労が報われたり、嬉しいことをより嬉しく感じることができると思います。


苦労は「伏線」、幸せは「回収」

今年の苦労が、今年中に報われるかどうかはわかりません。あと2週間で半月で今年も終わってしまいますが、現状、苦しんでいる人は沢山いると思います。「忘年会」で忘れてしまいたいと思うことはあるとは思いますが、今年味わった苦労が、来年報われることがあるかもしれません。もっと先かもしれませんが、その時に、せっかくの苦労を忘れてしまっては、伏線回収することもできないかもしれません。

言ってみれば、苦労は「伏線」であり、それが報われて幸せを感じることは「回収」と言えるのではないでしょうか?

なので、忘れてしまう「忘年会」ではなく、その苦労を受け入れて、よく頑張ってね、と労う「労年会」という名前にして、そのように認識した方が、この一年が意義あるものとなり、伏線が回収される時に、味わい深いものになると思います。

私自身は、それほど「忘年会」に参加することはありませんが(笑)、私にとっては「労年会」として参加したいと思います。コラムをご覧いただいた方も、ぜひ「忘年会」を「労年会」として参加して、この一年の苦労を労って、伏線が回収される時を楽しみにしてみたらいかがかな?と思います(^^)

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