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自己発見のツールとして|俳句修行日記
ニュースを開くたびに抱く思いが爆発し、今日はついに「言いたいことがたくさんある!」と声にした。それを聞いた師匠が、「地球の全住民がそう思っているぞ」と。
言葉が担う情報の本質は、幸福に資するものではないという。それは異論を浮き立たせ、隣人をも敵と仕立ててしまう。どのように和合を願ったって、我々の住む世界は、異質の集合体であるという事実から逃れられない…
人々は、自分の居場所を求めて言葉を連ねる。その根源にある私心は、自己擁護に基づく『正義』を展開し、立ちはだかる他者を抑圧することをも良しとする。けれどもそれは対立を生み、際限なくあふれ出す言葉は世界を汚す。
師匠のたまう。「おまえはただ淡々と俳句を詠め」と。
俳句は、思想と一線を画す。そんな短詩に何があるのかと言う者もいるが、師匠は「発見がある」と一笑に付す。
「俳句で用いられる言葉は己のものじゃ。」
どういうことかと聞くと、一般に言葉は、他者あってのものだと。己の中に生じた思いを、他者に受け渡す役割を担う。しかしここでは、他者の存在を必要としない。景色に仮託して得られた言葉は、己の知られざる一面を提示する。つまり言葉は、自己発見のためのツールでこそあるのだ。
師匠のたまう。「どんなに腹立たしい現実があろうとも、決して声を荒立ててはならんのぞ」と。そうすれば我々の帰着点は失われ、荒んだ世界が広がって行く。ならば一瞬間をおいて、そこに一句捧げるべきだと。(修行はつづく)