「軽み」と呼ばれる極意|俳句修行日記
酔っぱらってハメを外したボクも悪いんだけど、「軽い人」と言われてショック。そのショックを引きずりながらドアを開けると、師匠が「どうした?」と聞いてくる。仕方ないから惨めな婚活を報告すると、「軽みは、この世界の誉め言葉じゃぞ」と。
「『軽み』ですか?」と問うと、それは俳聖芭蕉の境地だという。多くを語らなかったがために、三者三様の解釈が存在するが、それでも、「高みに連れ立つ論理に変わりはない」と、師匠のたまう。
「『軽み』とは思いやりの結晶のことでな、多人数で句をつなぎ合わせる俳諧において、『付けやすい句』のことを言ったもんじゃ。自己主張の強い句を詠めば、あとに続くもんは、それに引き摺りこまれて流れが悪くなるからな。つまり『軽み』とは、固執理念からの解放に名付けられたもんぞ。」
それならば、思想も哲学もないところに俳句の真髄があるのだろうか?疑問を抱くと師匠、「あした教えてやるから、竹刀を準備して待っとれ」と。
また竹刀ですか?もう叩かれるのはゴメンです…
今日もまた、スポーツチャンバラの小太刀を準備して出勤。師匠はあきれた顔をしながら、「ホレ、今日はおまえがそれを持つ番じゃ」と。しくじった。それならば、今日こそは竹刀か木刀にしておくべきだった…
ボクの後悔を見透かして、師匠「どこからでも切りかかってこい」言う。だから、その頭へと小太刀を力いっぱい振り下ろしたのだが、何故か手刀に打ち伏せられた。立ち上がってもう一度飛び込むと、さらに強い打撃に悶絶。思わず「どういう事すか?」言うと、師匠、「これが相打ち」と。
「剣の極意は『相打ちに有り』という。諸流諸説あるが、相手の気を引き出すことで相手を制する技じゃ。それは、隙を見せることにより相手の打ち込みを誘発し、同時に自分は自分の影を打つ。つまり、相手は虚になった場所へとなだれ込み、自らの剣はそこへと落ちる。」
「『軽み』と『相打ち』には、共通点がある。それが『思い遣り』じゃ。と言っても、それは現代人が想像するような他者を中心に据えたもんじゃなくてな、外の世界と和合するためにつくられる自分の『穴』のことじゃ。」
「『情はひとのためならず』と言うが、句を詠むには、『思い遣り』の作用を理解しなければならない。さもなくば、自らの『重み』を世に訴えることに夢中になるあまり、他者との間に隔絶を感じるようになってしまうもんじゃぞ。」
む、むつかしい…。つまり俳句とは、他者との和合の道具ということか???哲学を語らずとも、かき乱された心の中に秩序を生み出すものだと!?
「夏風邪にやられて悟る我が身かな」(つづく)