味わうもの|俳句修行日記
とある句会で選者に立候補。演壇に立ち、提出された俳句を取り上げながら、その良し悪しに切り込んでいく。場の静まりを職場に帰って自慢すると、「おまえは何を学んでいたのか」と、師匠は機嫌を損ねてしまった。
そういえば以前、「観察者になってはならない!」と言っていたことがあったっけかな…
自分基準を他者に強要することが『批評』の正体―――そんな思いにとらわれ、指導の道から降りたという師匠。「思いのままにできる立場を放棄したのですか?」と聞くと、「思いのままに生きる道を選んだのじゃよ」と。
目に映るものにマルバツをつけながら生きていると、意に沿わないものが立ちはだかって、不快感に苛まれていく。そんな時、汚れた言葉が泥沼へと導く…
「世界は、狭い了見で評価するために存在するもんじゃないんだよ。」
師匠が言うには、世界は苦しみで成り立っている。だからして、視線を外に向ける時、心を貫き通す刺激が帰ってくるのだ。その苦しみから逃れるために観察者となっていては、全てが他人事と化し、己を見失ってしまうものだと。
俳人は、「味わう者であれ」と師匠言う。全ての苦しみを受け止め、それを『喜怒哀楽』で表現しろと。そうすれば、取り巻きすべて意味を成し、あたかも自らの手足のように思えてくるのだ…
とはいえ、ボクはそんな話を信じない。なぜなら、日頃の師匠の言にそぐわないから。観察者にならなければ『写生』はできないし、『喜怒哀楽』なんて自己チュウで、広い世界を写しとれるものではないじゃないか!(修行はも少しつづく)