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勝手に東北びいき・後編

※おことわり
こちらの記事は以前筆者が Amazon Kindle にて出版した電子書籍『東北贔屓』を再編集し且つ、同電子書籍の別タイトル『東京人には「言うたら」「言うても」は似合わない』の中の東北関連の文章を組み込んだものであることをご了承頂きたい。




東北らしさを発信せよ


ずっと緑のままで

1982年(昭和57年)に東北新幹線の大宮盛岡間が開通してから40年以上になる。

開通した当時俺は小学6年生で、上野口の特急列車が大幅に減少するのを残念に思いつつも、東北に東海道新幹線と肩を並べる緑色の新幹線が誕生することにワクワクしていた。
(地元の京阪電車の影響か、昔から緑色が大好きだった)

当時の鉄道雑誌を読み返すと、

“東北新幹線の緑色はずっと緑色だろうか”

という記事があった。

これは一体どういう意味なのか。

この記事を書いたライターは沿線の緑豊かな自然が開発によって荒らされないことを願っていたのだろうか。

今から20年くらい前になると、白地に緑のラインのオリジナルの200系もまだ頑張って走ってはいたが、E2系が幅を利かせていた。

決して嫌いな車両ではないのだが、

“東北新幹線=緑色”

であってほしい俺は、ちょっと歯痒い思いだった。

実は東北新幹線が緑色捨てるのではないかという懸念は、少し前から俺は感じていた。

E2系の前に製造された、オール二階建ての新幹線車両E1系である。
2階部分のグレーと1階のホワイトの間に引かれたラインの色がピーコックグリーンという色だったのである。

とても美しい色ではあるのだが、すこし青みがかったグリーンで、思えばこれが〈緑色軽視時代〉の始まりだったのかもしれない。

その後E3系は秋田・山形新幹線用車両だから別にしても、後のE4系まで非・緑色塗装車の時代は続いた。
 
2010年に新青森駅まで東北新幹線が全通し、さらなる高速化のためにE5系が登場。

車体上部が〈常盤グリーン〉という塗装になり、やっと本来の東北新幹線らしい色に戻ったのだ。
 
あの鉄道雑誌の記事を書いたライターが心配していた、

“東北新幹線の緑色はずっと緑色だろうか”

とは、

“東北が〈らしさ〉を捨てて、日本の標準的なものに染まる”
ということを危惧していたのかもしれない。

東北新幹線はこれからもずっと、標準的にならず東北らしい存在であり続けて欲しい。
(折しも開通40周年を記念して、今は無き200系に代わってE2系が白地に緑のラインのオリジナルカラーをまとい、懐かしい〈ふるさとチャイム〉も搭載して走っている)
 
  

西のスターと“タメ”を張った東の鼻高美人

東海道新幹線は日本の大動脈であるということは、誰もが認めるところである。

東京・名古屋・大阪の三大都市圏を結び、車両はすべて16両編成だ。

その点において、東北新幹線は敵わないのだが、1991年東京駅まで開通した際に登場した、堂々の16両編成の〈スーパーやまびこ〉の姿にはとても興奮したものだ。

東北経済連合会、略して東経連(後ほど詳しく触れる)はちょうどその頃、東京への一極集中問題を解決すべく、首都圏・東海・関西・瀬戸内・北九州を結ぶ〈第一国土軸〉に対して、東北新幹線や東北自動車道の沿線地域を〈第二国土軸〉と位置付けて、整備・発展させていくべきだと提唱していた。

その第二国土軸に興味を持ったことで、俺は東経連の存在を知ったのだ。 

東京駅で、東海道新幹線の横に並ぶ〈スーパーやまびこ〉は、まさに第二国土軸のシンボルだった。

車両はこれまでの丸顔の新幹線ではなくて、東海道新幹線の100系と同様の

シャークノーズ(鮫の鼻の様な先頭部分)と、

切れ長の目(ライト)が特徴的な車両で、

スカート(排障器)に、

スノープラウ(除雪装置)がついた、

北国仕様、平成の〈鼻高美人〉であった。 

その車両は〈200系2000番台〉という俺が今でも一番好きな新幹線車両だ。

その頃俺はまだ東京に住んでいたので、いくらでも東京駅にその姿を見に行けたので、

「まぁ、いつでも見に行けるから!」

と悠長に構えていた。

その後秋田新幹線との併結運転開始など、東北新幹線特有の事情もあり、16両編成で全区間を走破する200系2000番台は次第にその運用機会を減らしていったのである。
 
俺が最後に〈鼻高美人〉に乗車したのは、ミレニアム(2000年)の元旦に東京駅を出発した盛岡行きのやまびこ号だった。

 当時ミレニアムを記念して、新幹線を含むJR東日本管内の全ての特急列車の自由席が乗り放題の乗車券が発売されたので、やまびこ号は仙台駅を過ぎても超満員だった。

曇天だったが、途中宇都宮駅辺りでは、車窓から少しだけ初日の出を拝めた。
 
余談だが、俺と友人(鉄道会社時代の同僚)はなんとか座席を確保できたのでラッキーではあったのだが、少し前に座っていた親子連れの息子が調子に乗って弁当を食べ過ぎたのか、彼らが降りた駅(失念してしまった)辺りまで道中ほとんど〈ゲーゲー〉いって吐いていた。

彼らが降りると車内にようやく静寂が訪れた。

ふとそんなことを思い出した。

鼻高美人よ、永遠なれ!


新首都で仙台ラブストーリー?

今から30年以上前の1991年頃に、いわゆるバブル経済は崩壊したと言われているが、経済の専門家とか相場師でもない限りそんなことは分からなかったし、当時21歳だった俺の感覚としては、日本社会はまだ〈バブル景気〉の余韻に浸っていたような感じがする。

前述のように東北では東経連をはじめとして、西日本の〈第一国土軸〉に対抗して〈第二国土軸〉を形成すべきだとの機運が高まっていた。

ある日都内の駅のキオスクに、面白い見出しの新聞が売られていた。

新聞と言っても、ちょっとエッチな記事が書かれているタイプのものだが、

“仙台を首都に!”

と、そこには書いてあった。

記事には、

『これまで日本の中心は奈良・京都・鎌倉・江戸(東京)と常に北上してきた。そろそろ東北という声も説得力を持つ』

とあった。

実際に昭和時代には、岩手県首都機能を移転する〈北上京(きたかみきょう或いは、ほくじょうきょう)新首都計画〉などもあったそうだ。
(東日本大震災以降、こういった話が出てこないのは少し残念である)

こういう話を聞いて、東北の人はどう思うのだろうか。

“仙台や北上が日本の首都だったら…”

なんて想像したら、ワクワクするのだろうか。
あるいは、

『首都機能が東北にやって来たら、騒がしくなりそうだから嫌だ』

という人もいるかもしれない。
 
伊達政宗が、もう少し早く生まれてきたら天下を取っていたかもしれない』

ということはよく巷で言われる。

もし伊達政宗が本当に天下を取っていたら、日本はどうなっていたのだろうか。

関東の徳川を倒して〈仙台幕府〉を開いたかもしれない。
 
そして関東には、武士を監視する役所も置いたに違いない。
 
以前お笑い芸人・ウッチャンナンチャンのテレビ番組で、そのことを言っていたのが印象的だった。

『もし、伊達政宗が天下を取っていたら、時代劇は〈江戸を斬る〉ではなくて〈仙台を斬る〉になっていた!』

『(その後仙台が首都になっていたから)〈東京ラブストーリー〉は〈仙台ラブストーリー〉になっていたに違いない(笑)』

とても面白い“タラレバ”だったが、当時仙台や東北では大爆笑だったのではないだろうか。
 
でも、もし伊達政宗が〈仙台幕府〉を開いて、その後長期政権が続いていたら、その後欧米列強に開国を迫られて、仙台が〈東京〉に改名させられていたかもしれない。

その場合〈仙台を斬る〉はあっても〈仙台ラブストーリー〉はなくて〈東京ラブストーリー〉のままだったのだろう。

歴史にタラレバはないが、これは実に面白い。


東北イコール緑色じゃなくていい?

皆さんは“ブランメル仙台”という名前を覚えているだろうか。

昔あったフットボールチームのことだ。

シンボルカラーは”The・仙台”というべき深緑色だったし、
何といってもブランメルという名前が実に渋かった!
伊達男と言われた英国のお洒落な男性 Brummel 氏の名を日本のお洒落王である、仙台の始祖・伊達政宗に重ね合わせた〈ブランメル仙台〉という名称は、仙台の女子高生の妙案)
  
1993年にJリーグが開幕し、日本中でブームが起こり、東北でも〈おらが街にもJリーグ〉を作ろうという動きがあった。

そして、東北電力サッカー部が母体となりブランメル仙台が発足し、Jリーグ昇格を目指す戦いが始まった。

当時、仙台にはプロ野球チームも存在せず、地元のアイデンティティーを強く示す様な存在はなかった。

そこに現れた渋い深緑色のユニフォームは衝撃的だった。

それまで緑色のスポーツチームと言えば、その時すでに消滅していた大阪のプロ野球チーム〈南海ホークス〉くらいしかなかったのだ。

しかも、渋いとはお世辞にも言えない明るい緑色で、失礼ながら強そうには見えなかった。

多くの日本人の間にも、

“緑色=弱そう”

というイメージが何となく定着していた感がある。

Jリーグ発足直後の頃に人気だったヴェルディ川崎はその名の通り(Verde というポルトガル語で緑を意味する言葉からの造語)シンボルカラーは緑色だが、当時のユニフォームはキラキラとメタリックな装飾が施されていて、純粋に緑色を用いているという感じはしなかった。

その後、チームのオーナーがプロ野球の読売ジャイアンツのようなやり方でヴェルディもやって行こうとして、多くのJリーグファンの反感を買い、やがて人気もなくなった。
  
そして肝心のブランメル仙台は下部リーグのJFLがJリーグと統合してJ2になった際に、

ブランメルという名称がすでに海外で使用されていて、商標権侵害のおそれがある”

との理由から、名称変更を余儀なくされた。

とても残念で悔しかったが、なぜ最初の段階で分からなかったのかという疑問が残る。

さらにはチーム名の変更とともに、シンボルカラーも変更してしまったのだ。

さすがにこれには納得がいかず、クラブに質問状を送った。

「どうして緑色まで変えてしまったのですか?」

と。

すると、数日後クラブ側から返事が来た。
そこには、

『緑色だとヴェルディと色がかぶってしまう』

と書いてあった。

ではなぜ、最初に緑色を選んだのだろう。

これだけクラブのチーム数があるのだから、他のチームと同系色になることは多々あると思う。

もしかしたら色々と、大人の事情があるかもしれないので、仕方がない。

今でもちょっともったいなかったと思う。
それほどに素敵な名称とシンボルカラーだった。

でもブランメル Brummel は名前が立派すぎて(言霊が偉大すぎて)、荷が重すぎたかもしれないので、逆に良かったのかもしれない。

ステップアップのために必要な出来事であったのだと思いたい。

現にチームは〈ベガルタ仙台〉に変わってから、ランクアップしたと思う。

サポーターのチャント(応援歌)も、ブランメル時代は手作り感が満載で、お世辞にも洗練されているとは言えないものだった(失礼)が、ベガルタになってからはフットボールの本場・欧州のサポーターが真似するほど、オシャレなものになった。

ブランメルがベガルタに変わる過程において、ローカルな感じが消えて日本の標準っぽくなり、洗練されて都会的になった。

1990年代の後半から2000年代の初頭にかけて、ブランメル・東北新幹線共に緑色ではなくなっている。これは決して偶然ではないと俺は思っている。

これは東北が〈らしさ〉を捨てて、日本の標準的なものを目指そうとしていた何よりの証拠ではないだろうか。

ある意味、仙台・東北の発展には必要なことだったのかもしれないが、これからは多少ローカル色が強くても、ありのまま堂々と東北を前面に出すべきだと思う。)

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