改めて自己紹介
削除してしまったので…
記事がダブって表示されていた?ので、削除したら全部消えてしまいました。
改めて自己紹介します。
(ちなみに見出し画像はかえし&鰹だしから作ったたぬきそばです。関西で濃いそばつゆを出す店はほとんど無いので、だったら自分で作ろうと)
天邪鬼な関西人
昔から、なんか大勢の考えとは合わない筆者。
他人とは違う視点で物事を捉える筆者。
そんな筆者が、思わず脇汗かくほどの関心事
(何故かムキになると脇汗がドバっと出る)は、
東京vs.大阪の文化的対立構造なのだ。
俺が好きなバブル末期の東京
筆者がよく遊びに行っていた頃の東京はとてもギラギラしていて活気があった。
1987年(昭和62年)、おニャン子クラブのコンサートに行くために代々木体育館へ行った。
会場の下見の前後に訪れた原宿・竹下通りや渋谷の街は大阪とは全然違う雰囲気で、すぐに筆者を虜にした。
電車もカッコよかった。
大阪の電車よりも長い編成で、銀色のボディーに黄緑色のラインカラーの山手線。
その他にも中央線快速のオレンジ色、中央総武線各駅停車のイエローなど、整然と色分けされた東京の“国電改めE電”。
(1987年3月に国鉄は民営化されてJRになった)
「ああ、やっぱりここはいわゆる“私鉄王国”の関西とは違って、JRの天下なんだな」
と、その存在の大きさに圧倒された。
東京と大阪の対立
当たり前だけど、聞こえてくる会話は標準語で、関西弁で捲し立てる人は皆無だった。
夜泊っているビジネスホテルで深夜番組を見ていても、関西弁の吉本芸人は何処にもいなかった。
当時から、テレビを付ければ当たり前のように吉本芸人を見ることができた関西。
それなのに、ここ東京では全く相手にされていない感じだった。
そう、昭和末期から平成初期までは、東京において関西弁は“ただの一方言”にすぎず、吉本芸人もそれほどメジャーな存在とは言えなかった。
もちろん、その頃すでに明石家さんま氏は全国的な人気者だったが、だからといって関西弁そのものが受け入れられた訳ではなかった。
当時すでに東京の虜になり、東京に住むことを決めていた筆者はこれらの状況が実に痛快だった。
昭和の時代、東京と大阪は今ほど文化的な交流は盛んではなく、お互いに相手の言葉を嫌い合っていた。
「なんやねん、東京弁ナヨナヨしやがって」
「関西弁って、ダサいよね」
といった具合に。
マイナーからメジャーへ?
地元ではブイブイ言わせている関西人も、“天下の大東京”には適わなかった。
「大阪が一番!阪神タイガースが一番!吉本のお笑いが一番や!」
と言う関西人の同調圧力に辟易していた筆者はそれらまるで存在しない、まるでパラレルワールドのような東京が天国に見えたものだ(笑)。
だから、あの当時の感覚からすれば、今の状況は筆者の予想を遥かに超えてしまったと言える。
全国放送のテレビ番組は何処を見ても関西弁の芸人ばかり。
ついには芸人でもないのに関西弁で通すタレントやアイドルまで出て来た。
こういうことを言うと、
「今は方言を堂々と喋っていい時代なんやから」
「方言を馬鹿にしてはいけない!」
との反論する方もおられるだろう。
でも、なんか違う。
ちょっと引っかかるのだ。
関西弁は東京において一方言というよりも、むしろ
“第二標準語”
みたいな地位が欲しいという本音が見え隠れするからだ。
何処に行っても、自分たちの訛りを直さないというか、そもそも
「自分たちは訛っていない!」
と思っている。
その厚かましさが嫌いなのだ。
さいごに
おっと、自己紹介なのに長い文章になってしまった。
とりとめのない内容になってしまったが、つまり筆者が主にこちらで訴えたいことは主にこういった内容である。
その他にも、筆者の天邪鬼な視点で様々なものごとについて述べていきたいので、どうぞお付き合い頂きたい。