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ぼくたちの内側の世界はほんとうに未知だ 未知なる世界が広がっている どこまでも続く広大なフィールド 僕はこの未知の世界のなかに浸るとき、この世からの離脱に成功する ここではないどこかへ滞在できているときなんだ そこはいつも僕を虜にしていて、ずっとここにいさせてくれよと懇願する気持ちになるんだ そこでは生命の起源に出逢えて、生まれた意味を知ることができる。 自分が実は自由で、何でも創り出すことができるということも知ることができる。 外の世界は限定的で、時間と共に消えていく
社会の考えで生きては行けない、と思ったのは最近のことじゃない。 多くの人が共通して持つモノサシで測られるコトがとても違和感。 人ってもっと括れない未知な存在だって。 誇らしくなければならないって、なにかハッキリした位置がなければならなくて、でもそんな自分になれたところを想像してもワクワクなんか無い。 じゃあなんなんだ?って聞かれると答えるには、あまりにも言葉では捉えられないスケールで、というか言語では追いつけない畑に在るんだ。 思考は、生き物だと思う。 多くの人が近い思考を
銀行員の頃、仕事で大学病院にも足を運んでいた事があったんだ 仕事がひと段落すると、院内の壁に掛けてある『 花咲くソーリオ 』というタイトルの絵の前の椅子で、静かに休憩する事が 僕の静かな楽しみだった。 「(はなさくソーリオ…)」心の中でつぶやく 今でもタイトルは覚えている。 悩殺されそうな激務の中、その絵が心の水汲み場にもなっていた。 だから、大学病院へ行く時は密かに心躍っていた。 自分が大切にしたい感覚、美的な感性が働く。 その絵を見るたびに、僕は思った "
初めて宇宙の "無条件な愛" と繋がった20才の体験を思い出す。 果てしない銀河の景色があったんだ 鼻の奥に、鋭い鉄の味が広がった。 あんな衝撃と感動は 今までにない。 心から泣いた。恥ずかしさもなく崩れた 本当に嬉しかったんだよ。 やった、良かったよ。 分かって良かったよ。 僕も皆んなも もう大丈夫なんだよ安心してよ この先しぬ事があってもその先もずっと大丈夫なんだよ 不安や怖れはもういらないよ。 この事は、脳みそでは到底理解出来ないことなんです。脳みそで理解するにはあ
"愛する喜びに酔いながら生きられたなら" 21の時、刹那の中 思った僕の夢 それを今 はっきりと認識し、自分で心の真ん中に置いた 真の愛を与えていくこと。 僕の中で空いてた心のセントラルな箇所に、 やっとダイヤモンドの様に大きな宝石が埋まった。 この意志は僕が受け継いだ 永遠に生きるもの 僕は愛してもいいんだ。 「形は変わる、想いは変わらない」 今日 街でたまたま見かけたアート風の看板が 記憶の中で私を納得させる。 人を 万物を 神を喜ばせようとする その時、 私
寒い季節になった 朝はどうしても昨夜の自分を責めながら起きる もっとずっと眠っていたいのに 僕はロングスリーパーだから後二時間は眠る必要があるよ でも、この時期の世界が好き 冷たい空気がいつもの風景を切なくするから。 等間隔に立ち並んだ裸の木々、 寒そうなビル群、 静かに歩く人々、 みんなで作り出してるこの世界観が僕は好き 宇宙空間から見たときに 太陽との距離感がまた絶妙なんだろう 僕らの星は自転して この時期、光から少し遠ざかる それがこんなにも世界を変えるんだ 光と
昔から「言葉」に興味があったわけではない 学生の頃も特段勉強ができる方ではなく、読書好きだった訳でもない。 学校を卒業し就職した会社では、語彙力が全く無い奴という烙印を押されてさえいた。 僕が言葉を求める様になったのは、 僕が人生でやりたいことはなんだろう?と思うようになった頃 自分のことをもっと知りたいという気持ちが言葉を求めるきっかけだったんだ。 言葉にすることは、掴まえる事とおんなじなんだ。 「思っている」「感じている」これらは、まるで雲のようだ。 僕は、自分の想い
完全性とは、 整っており、矛盾がないことです。 私たちは 心で 直感として 一挙に、それを理解する。 ただ、少し整っている位ではなく、完全に整っていて どこにも矛盾がないということ。 その見事さに 私たちは感嘆の念 もしくは 快感情を感じるのである。 「ひとは、美を味わうと創造を始める」 と言いました。 無形の完全性である ’’美’’ を味わうと、私たちはどうしても 形を持った完全性として 表出させたくなる → 芸術 表出された芸術というのは、
’’美’’ の目的は、その快感情を 作品(自然,絵画,音楽,建築,詩...etc)を通してこの世界へ表出させること。 ’’芸術’’ の目的は、美の所在である 快感情 の世界へ 私たちを送り出すこと。 美と芸術はお互いが到達点であり、補完し合う関係にある。 そして、芸術は 快感情の世界へ私たちを送り出すために最も適した、完全な形を求めて志向し続ける。その志向の導き手であるのが ’’美’’ であり、美 もそれを願っているのである。
’’美’’ は、私たちに快感情を与える。 美は無形であり、心で一挙に、直感的に捉えるものである。 論証的に、理性的に捉えることはほぼ不可能であるというべきである。 ’’美’’は、さらに次の創造を刺激するものである。 あらゆる芸術作品において、美を包括的に表現できている作品というものは、人々にインスピレーションを与え、新たな創造を開始させる。 美を包括した最も身近で私たちに インスピレーションを与える芸術作品は、 自然である。 美は、創造の動機である。美を味わ
目には見えないその ’’美’’ を、五感として感じられるように外界へ表出させたものを芸術(art)と、 ひとは呼ぶことにしているのだと思う。 しかし刺激的だ。 ’’美’’ の目的は、きっと、この世に 形を以って現れることなのではないか。 僕が思うことは、好きな感情の味わいを追求し、また、表現する芸術活動は ひとが行うことのできる最も価値のある活動だということである。
’’美’’ についてお話がしたいです。 しかしそれを言葉で伝えるのは、とても難しいこと。 なぜなら、美とは「思考の世界」ではなく「感情の世界」のことだから。 美には、言葉によって捉えようと試みたくなるような魅力があるけれど、 どのような言葉もそれを捉えることはできない。 だけど、言葉とは、感情の世界へ送り出してくれる最も有効な手段だと思う。 きっかけがあればいいんだ。今はそれでいいんだ。 どんな感情を味わう人生にしていくかが大切だと私は思う
あれもこれも意識して行動するなんてできない 本をたくさん読んだって 長い時間、話を聴いてたって 心に残るのは1つか2つくらい 欲張りにメモを残しても そのメモを見返すことは無く 結局、印象的なものは1つくらい そしてその1つも意識できないことが 多い いともたやすく 忘れてしまうんだ 教会にいた頃、 講義を受けて心に残るものをスポーツの中で実践するというものがあった "アルティメット" というチームプレイで行われるフリスビーの競技は 実践にはとても最適
2年以上続いてる私の音声配信、stand.fm コツコツこれまで続けてきました。 楽しい時期もあれば、 発信しなきゃと義務的にやるときもあり、 毎日投稿することもあれば 1ヶ月止まることもありました。 それでも喋るのをやめようと思ったことは無くて なぜなら、 僕が一番自分らしくなれるのは、自分の言葉を喋っている時だったからです。 そして、僕の声には、言葉には、 不思議な力が宿っていると直感しているからです。 だから音声発信をしていくというのを、 なんと