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改題『「死」とは何だろなぁ』
今こんなタイトルの本を読んでいる
![](https://assets.st-note.com/img/1653359843930-5qpTaPFwNP.jpg?width=1200)
数年前に本屋さんで購入して以来本棚を彩っていた一冊だったのだが、遂に読むことになった。
ボク自身哲学関連の本は好きで、プロ倫、風土、善の研究、ツァラトゥストラ等の有名な書物を読んだり、大学入試では倫理を使ったりした。
そんなこともあってこれを買ったのだが、この本はまごう事なき哲学本だ。
まだ、100ページほどしか読んでないけれど、冗長な説明が多い
それでもって、話が本当に前に進まない
内容自体面白いし、翻訳者の柴田裕之さんの文章力があるおかげでペラペラ読み進めることができる。
しかし、堂々巡りのような説明が多いのが勿体ない。やはり哲学を勉強するのは人伝えの話より、その人の自伝や生講義を聞くに限るなぁと。
この本では死について論理的な実証がなされているわけではないようだ。
本書で検討しないテーマについて、少し述べておきたい。~~
一般に、死に関する本ではおそらく、死にゆくプロセスや自分が死ぬという事実を甘んじて受け容れるに至るプロセスが詳しく書かれているだろう。だが、本書ではそんな話はしない。また、~~
この文を観ただけで分かるだろう
めんどくさい
どれだけいいことを書いていたとしても、ただ内容を話すだけでこんなに手間がかかる人の講義だ。
まぁ、そんな話がしたいわけではなく、この文を紹介したのは、『「死」とはなにか』という本の名前にもかかわらず、本質については何か触れるわけではないということだ
それを理解した上で、話を進めていこうと思う
形而上の物事を考えるとき、人間については二つの立場をとらなければならないようだ。
立場① 二元論 :人間=身体+心(魂)
立場② 物理主義:人間=身体
遠い昔からある有名な分類でわかりやすい。
ボク自身の考えから言わせてもらうと、ボクは二元論的に考えている節がある。
というのも、面白いと思う方を選ぶ信条があるからなのだが、二元論的に人間を捉えたマンガや小説が好きだ。
本質は魂に存在して、DNAとかいう情報の格納庫は魂の受け手でしかないと世界を眺めると面白い。
『鋼の錬金術師』というかつて集めていたマンガには、二元論的に考えているからこそ話に未知の奥行きができあがり、その未知の状況が面白さを増していた。
そこにあった”真理の扉”とやらの考え方も非常に面白かった。観たことない人は真っ先に観るべき最高のマンガだ。
話がそれて長くなったので、この本を読んでいてハッとした文章が2つあったのを最後に紹介したい。
物理主義者の視点からは、心について語るのは、身体の持つ様々な知的能力について語る方便に過ぎない。
なるほど。いいたいことが分からないこともない。
ここで筆者は、物理主義者は脳の機能を軸に考えていると主張していて、心は脳機能を考えない奴の考えと物理主義者がいっている。
これに続いて、物理主義者の視点で”心≠脳”ではないことの理解を促す文章がある。
皆さんが私を殺したとする。死体となった私が床に転がっている。私の脳もそこにある。脳は依然としてそこにある。だが、それにもかかわらず、私の心が消滅してしまったことは明白そのものに見える。
ここで、物理主義者は心=脳とするような二元論的価値観を批判する。
この部分はハッとさせられた。というのも、二元論的に考えているはずだったボク自身が、心=脳が説明つかなくなるとあらゆる説明が困ってしまうからだ。
しかし、考えてみたら簡単な話だ。
脳は電気信号によってあらゆる刺激を感じ、それらの伝達も促している。それなら、死んで数ヶ月たった死体に電気を流せば人間として機能するのか?
答えは否だろう。
人間らしさのない動きは見せる可能性は十分にある。それが反射というヤツだからだ。それじゃ鉛筆や消しゴムと同じ機能だけを有した物体と同じだ
そこに考える、計画を練る、そんな人はいない。
しかし、人間性という曖昧な観点ではその人間性という機能は脳に由来しているとは到底思えない。
この本を100ページまでしか読んではいないけれど、そこまでで思ったことのまとめとして、心は人間性という曖昧なベクトル、脳は人間を動く物体と見たときの説明に使うべきで、両者を混ぜる必要がないと新たに考えた。
猫も杓子もが知っているような、電気で人間は動いていてシナプスが~なんて道ばたの糞みたいな説明は、考えない人を創るための形式にすぎない
そんな文句をたれて、これが読み終える頃には、新たな見地を見つけていたらいいなと、またこれの続きを更新することを願って、ここに筆を置く。