アキレスと幸せ
(勝手に引用してすみません)
この手の話しは大好きで、各々考えがあるからいいものだと毎回思う。
幸せの定義は、かつて有名な文豪がしようと試みて、生涯にわたって考えた結果
「分からない」
となったほどの難題だ。
今回はその解の一つをとあるリクルーターが提示してくれた。
との記事を読んでの感想文を書こうかなと。
ちょっと長くなるが、tokiさんの記事中のリクルーターの言葉は引用させてもらう
すごい。
こんなにめんどくさい幸せは、色んな人に聞いた中で初めてだ
幸せを感じるのには7つ程段階?があるらしいがそれが面白い
これを自分的に要約すると、自身が幸せになるには
「主観における幸せを設定し、再三考え直してなお、世間をはねのけた先にある。」
という事らしい
こんな論理だっているのに、思ったことは
「それじゃ”アキレスと亀”じゃないか」
である。
もちろん亀が幸せでアキレスがリクルーターであり、リクルーターにとって幸せは考えれば用意できる物だが、更に考えていくとその場に残り続けないらしい・・・
なんだか頭が痛くなってきた。
リクルーターのいう幸せはそのあとの話もふまえると、自分にとって絶対的な幸せを表してる様に思う。
世間一般の幸せをおそらく相対的な幸せ(張りぼての幸せ)としているのだろう。
幸せな状態に変わりは無いのになぜ区分したのかは不明だが、絶対的な幸せこそがホンモノとしている点が特に面白いと感じた。
ここからは持論を述べていく
ボクは小中のときの思い出でも、今振り返ると幸せだったなぁと感じるし、今パスタの上にキューピーのミートソースをかけて食ってても、うまい!と幸福感がある。
つまり、リクルーターが言うように幸せは前もって意識や設定しなくても、あとから感じる事ができている。
これらはおそらく絶対的な幸せである。
しかし、大変なことでもない。
率直に自分の楽しい事をやり、好きな物を食ってるだけだ。
昔の思い出に関しては、当時幸せなんてことは全く意識していなかったのだが、楽しかった記憶が思い出されて、それだけでも幸せだったなぁと幼少期を評価する事ができるし、今もそれで最高の気持ちになる。
言語化すると安っぽくなるのが最悪なのだが、あらゆる経験をした事によって素直な評価が後からできている。
結局楽しかったというだけで幸せなのだ。
おそらくこのリクルーターは何が楽しかったのですか?と聞いてきそうな人類なのだが、それは野暮ったく楽しくないのでスルーしよう
最後に、普遍的な話をする。
持論ではあるのだが普遍的には、状況によって幸せは変わると考えている。
運動して喉が渇いている夏の日なら、キンキンに冷えた水を飲んだだけで最高の気分になる。
肉体労働後のビールなんかも最高だ。
腹が減ってるときの飯は何でもうまく感じる。
それらは全部幸せなのだと思う
久しぶりに会った友達とのんびり森を散歩しながら色んな話をしていても幸せを感じるので、非日常的な物に対しても人は幸せを感じやすいのだろう
そして、日常的な物事に対しては後々幸せだったと思い直す事がよくある。
これは、客観的に幸せな状況でも、それが当然のようになると認知できなくなるが、日を置くと認識できるようになるからだろう
大人になると、楽しいを見失う。
その失った先にあるのが幸せなのかもしれないと感じたので、それらを今度友達に話してみよう。
ネタが一つ増えたのが楽しみだ。
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