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キラキラネームによる自己の欠落

 ⚠️3年以上前のメモを書き起こしています。ご容赦を。

 まず、自分について、自分が何なのか、または何者であるかなんて事は考えてもきりが無いし、自分一人で完結できる話ではないはずだ。

自己紹介をする時を考えてみると、私の名前は○○です。職業は××で、好きなモノや趣味は▲▲です。

なんて、紹介をするのが通例であるが、このとき自分が決めることができて、誰に対しても絶対的なものはほとんど無い

既に相対的な評価軸が完成してるからこそ、自己紹介の場が成り立っている

職業や身分は社会との関係性から生まれ出る物で、それらを言うのは自分を名乗るとき、社会的な住所を言うようなものだろう

また、好きなモノや趣味とやらは漸く自分についての本質に迫りかけているが、それでも自分を表す根幹にはなり得ない。

自己を表現するときに言葉をいくらこねくったとして、どこまでいっても表面であり、本質には近づかない。

後天的に獲得した自分らしさなんてものは、DNAなんてところに刻まれている情報でもなければ、染色体の数も関係ないはずだ。

要するに趣味なんて物は、生活してきた環境、社会、文化によって様々なのである。

 そんな自分を規定する事すら自分でできない動物が人間であり、それなのに自己紹介をするのは一種の自己矛盾をはらんでいるのかもしれない。

そのなかでだ

キラキラネームをつけること自体、生前虐待ではなかろうか?

ここで問題提起しているのは、暴力沙汰とかいう話ではもちろんない。

というのも名前というのは、自分を規定する物が無い中で親によって決められたが、それ自体が自分を表せる唯一無二の手段なのだ。

それが、意味のないもので規定されたとしたら

親が面白半分でつけたのだとしたら・・・

子供は不遇でしかない。

訳の分からないところに放り出されて、その中で自分が何者であるかの規定すら最初から無い名無しの権兵衛だ。

空虚な人格に育ってしまうのではないか?

色んな悪い憶測をしてしまう。

 生まれ出た瞬間に、その場所がどこであったとしても世界各国それぞれの”世間体”が存在する。

案外知られてはいないのだが、欧米にだって世間はある。

しかしキラキラネームとなった暁には、生まれた瞬間どこの世間でもはみ出し者だろう。

ボク自身兄弟がいて、8月頃に第一子を授かる予定らしいので、赤子はいい名前を授かって生を堪能してほしいと願っている。


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