関ジャニ∞とわたし
【プロローグ】
関ジャニ∞を見つける前の話だけど、私がJ事務社にハマる下地のようなものかもしれないから書き残しておく。
小学生の私は人並みにドラマを見ては友人と話すタイプだった。あまり記憶にないものもあるけれど、銀狼怪奇ファイル、つよしと松潤の金田一少年、透明人間等々、まあまあ見ていた気がする。その頃はJ事務所というくくりには疎かった気がするけれど、気づいたら目に入るくらいテレビに出ていたと思う。学校へ行こうなんかもクラスの大半が見ていたし、スマスマもほぼ見てた。余談だが、中学の先輩(綺麗で秀才でピアノが上手で足も速いタイプ)が、ビストロSMAPでキムタクが負けた次の日は機嫌悪くフルートを吹いていた。
中学生の頃、同級生のママが強火光一担で年末年始の東京ドームコンサートを全通するタイプだった。大晦日のコンサートだけは娘とその友人たちを連れて行くので、恩恵に授かって連れて行ってもらったのが私の初J現場だ。3年間連れていってもらったが、毎年よく喋るお兄ちゃんだなと思っていた。Anniversaryを発売した年だったから、放課後黒板に友人と歌詞を書いて遊んでは担任に呆れられながら消された思い出。
高校生のある日、友人がおもむろにMDを渡して言ってきた。「KAT-TUN。良いよ。聞いてみて」そうしてわたしはKAT-TUNを聴き始めた。Best of KAT-TUNである。SHE SAID...、MIRACLE、WILDS OF MY HEART…今でも歌えるほど通学中よく聴いてた。がしかし、そんなある日関ジャニ∞に出会うのである。
【関ジャニ∞との出会い】
あの頃は歌番組がめちゃくちゃ多くて、なんの番組だかは忘れたけれど、ズッコケ男道を歌う関ジャニ∞を見た。顔のいい男たちが派手なスーツ衣装を着て元気よく歌っている。寝そべりながら「這いつくばってこーぜ!ほら!」とこちら(カメラ)を見ながら歌っている。何この人たち…が第1印象だった。ジャニーズなのに…とも思った。この人たちはやらされてるのか自らしているのか考えてみたが、曲を聞いているうちにどっちでもよくなった。圧倒的に楽しさを覚えたからだ。謎の感動をし、涙も出た。それくらい衝撃的だった。そして関ジャニ∞を検索する日々が始まった。レコメンというラジオをやっているらしい。聞いてみよう。そこから横山裕が卒業するまで、毎週木曜は夜ふかしをする生活が始まった。
【自担を横山裕にするまで】
最初に手に取ったのは、ズッコケ大脱走の初回盤だ。アルバムを買ったはずなのにDVDが入っている。しかもなんかコスプレしてる。わからない。自己紹介はボケ倒してる。でも曲はかっこいい。王様の格好してる人面白いな。これが最初の印象だった。当時のわたしは「アイドルグループを応援するということは誰かひとり決めなければいけない」と思っていて、書店に並ぶ関ジャニ∞表紙のドル誌等を眺めながら頭を悩ませていた。そう、王様の格好をしていた人は、王冠を取ると坊主だったからだ。鍋を磨く坊主だということを後に知るのだが、その時はドラマを見ておらず、(坊主か…私は坊主を応援するのか…?え、ほんとに…?)と悩んだのだが、結局そのまま横山裕を自担にすることに決めた。そういえば昔のことで時系列がわからないのだけど、Mステで「Great Escape ~大脱走~」を見たのは覚えてる。
【始まり】
KAT-TUNのアルバムをMDでくれた友人にズッコケ大脱走を貸すと、渋谷担になって返してくれた。あの一枚ですごい。そうして私と友人はKAT-TUNと関ジャニ∞の2グループを応援するようになった。1人より2人だと、話もできるし楽しいよね。先輩の卒業式の日かなにかに、高校近くの郵便局へ行きYou&Jに入会したのを覚えている。窓口へ案内された友人とATMへ案内されたわたしは、会員番号が2つわたしのほうが早く、同じ時間に入会した人がこの世界にもう1人いるんだな…と感慨深く感じた。赤いスティックのような会員証、今は実家のどこかにあるだろうから探してみようかな。過去のCDやDVDを買ったりレンタルしたりし、早く生でエイトレンジャーを見たいな…と想いを馳せた。
【菊正宗清四郎さまとソロコン】
わたしは音大出身なんだけど、志望校を決めたのが遅かったせいで高3の夏すぎから受験対策のために音楽教室に通い始めた。今思えばとても感謝なのだが、通っていた教室が電車だとかなり時間がかかるため、毎週母親が車で送り迎えをしてくれた。一度帰る時間もないため、母は車で寝ながら待っていたらしい。(教室で待つのは恥ずかしかったらしい)火曜日帰宅してお風呂に入り、その日もらった宿題を有閑倶楽部を見ながらやっていた。基本CMの時にしか進まなかったけど、坊主からシュッとした横山裕はとてもかっこよかった。
そういえば進路決まったけど入学するまでこの教室に通っていたのだが、横山裕ソロコンが当たったので仮病を装い休んだ日がある。国際フォーラムCホールの上の上のほう、端で見切れる部分もあったが、これがわたしの初めて自担を見た日だ。
【初めての関ジャニ∞のコンサート】
47は行きたかったのだが、地元埼玉は会場まで行ったもののもちろん入れるわけもなく、近くで友人と時間を潰していたら公演終わりのメンバーが乗ったバスを目撃した。パソコンみたいなの開いてる錦戸くんだけは見えた。出待ちをしていたっぽい人に「東京ドームの上のほうの座席ならチケット探せばあると思いますよ」と言われたが、東京ドーム公演を行っていた8月は吹奏楽部の大会と重なっていて練習を休むわけにはいかず、行くことを諦めた。
(ここまで読んでくれた方はわかったと思うが、わたしは8人の関ジャニ∞を知らない。田口くんに代わったドラマは見ていたが、代わったと知っていても顔の違いがわからないくらいその時は疎かった。今なら絶対に見分けがつくのにね。)
初めてFCに入って申し込んだコンサートは、2008年春の横浜アリーナだ。しかしわたしは外れた。え、そんなことある…?と思ったが渋谷担が当ててくれた。ツアー初日昼公演でグッズ列は大行列。公演前か後かは忘れたが派手なトラックの前か上でメンバーがワイドショーの取材を受けている。近くのお姉さんが「写真撮らないでください!!!」って叫んでて、怖かった。チケットはアリーナ席(横アリだとセンター席かな)で、喜んだのも束の間、本編では1回もメンバーが来ない埋れ席だった。まあでも初めてだし楽しかったなぁと思っていたら、アンコールでトロッコがこちらに向かってくる。なんと乗っていたのは横山裕だ。差し出された手におそるおそる手を伸ばし、そっと触れた。その手はあたたかくしっとりして少し分厚く、当時レコメンで太一くんが「横山の手は畳みたいにカサカサ!」と言われていたので、全然違うじゃん!!って思って公演終わりのノリと勢いでレコメンにメールを送ったら、目に留まったらしく家に電話が来ていたらしい。電話を受けた父のせいで生電話することは叶わなかったが、そこまで込みで良い思い出である。
想いを馳せたエイトレンジャーは、2008でしか見ることなくその後長い冬に入る。てか2008春って円盤化されてないし、後に出た年表にも入ってなかったんだけど、無かったことにされてるのかな。
【初めての番協】
タッチエコの番協のために丸一日よみうりランドにいたのが初めての番協だった。端の席だったが、大倉くんがバイクを押して出ていく通路の横だったのでかなり近くで見ることができた。あとたしかラモス瑠偉も見た気がする。
【低迷期】
大学生になり、渋谷担の友人と進路が分かれたあとも何回か一緒に行動していたが、ついに友人がヲタ卒をすることになった。わたしはわたしで大学生になり水嶋ヒロや佐藤健にハマったりもしたのでゆるやかなヲタ活になっていた。少し離れた心で申し込んだFIGHT魂はアリーナ席だった。チケットが当たっても一緒に行く人がおらず、9歳上の姉を誘った。パンぱんだの時に降ってきた紙吹雪はわたしのところには来なかったけど、隣の席の人がペンライトでわたしの持つ団扇を光らせながら確認していて、1枚しかないんですけど…とユウユウの紙吹雪をくれた。神様かと思った。
【2度目の番協】
誘った姉はあまり関ジャニ∞は刺さらず(それはそう、だって姉は光GENJIとDA PUMPが好きな女だったから)固定の友人もおらずで寂しくゆるゆる活動している時に申し込んだ番協が当たった。パパドル最終回のライブのエキストラだった。大学の地下の部屋にいたので電波がなく、地上に出て多量のメールの中から見つけた当選に驚いた。1人での応募だったが、前後に並んでいたお姉さんがとても優しくてずっと話してくれた。そうしてわたしは、後頭部ではあるがドラマで自担と共演することになった。
【Twitter】
この時代はTwitterが盛んで、同い年のeighterでドーム前に集まって写真撮りましょう!の企画が各会場で行われていた。LINEのグループも100名を超えるような人数でいたが、そのうちに気の合う少人数のグループに分かれていった。関東に住む10人ほどのお友だちと、初めましてで横倉の誕生会をした。そしてここから、今に至るまで仲良くしてもらっている人たちと関わることになる。「今年から新社会人です!」と自己紹介をしたわけだが、いまのわたしは職歴11年目である。なんか…10年以上も仲良くしてくれてありがとうやで。
【ふりむくわけにはいかないぜ】
この年仕事がうまくいかなくて、だいぶ凹みながら仕事終わりに東京ドームへ向かった。正直サンボマスターの曲って熱量が高すぎてあんまり受け付けなかったし、そもそもバンド曲に抵抗があったんだけど、この日は大号泣した。
「苦しむために生きないで、あなた自身を愛してくれ」
仕事は毎日苦しかったし自分が嫌いになりそうだったけど、もっと肩の力を抜いて働こうと思った。結局この職場での5年間は大変じゃない時なんかなかったけど、異動したいまのびのび働けているのはここでの苦しかった経験のおかげだと思う。楽しませてもらうだけだったアイドルに、勇気づけられた瞬間だった。
まあここから先はそんなに書くこともないかな。ちょっとだけ遠征もした。コンサートのチケットはないのに、コンサートの中日でやるレコメン収録in京セラドームのために大阪に行ったり、嵐好きな友人にデジタリアン誘ってもらったお礼に札幌のアリーナ席誘い返して旅行したり。すばるくんが抜ける時は衝撃しかなかったし、どっくんが抜ける時は目の前が真っ暗というか、ビジョンが見えなくなった。どうなっていくのか不安だったが、彼らは知らぬ間に大きく逞しくなって進んでいったからそのまま着いていった。そして気がついたらいまである。
メンバーが抜けてほしくはなかったけれど、抜けなかったらいまの関ジャニ∞がないのは確かだ。(ちなみになにわ男子もなかったかもしれないから、自担が増えることもなかったかもしれない)自担が40からギターを始めるとも思わなかった。大手フェスに出る未来も想像してなかった。わたしには自担が増えたけど、でもこれからも関ジャニ∞が好きで、eighterとして活動していくんだと思っていた。
明日から関ジャニ∞は名前が変わる。でも中身は変わらないと本人たちは言ってくれている。私たちも変わらない。変わらず応援するしかない。新しい名前も愛していく所存である。
関ジャニ∞でよかった。
eighterでよかった。