
また書くことにした理由について、あるいは抱えるべき矛盾について
「なんだか随分と白くなってきたな」
髪の毛の話ではない。洋服の話でもない。気がついてしまったのだ、漂白されている自分に。いつも黒色や紺色や枯葉色の服ばかりを好んで着ているが、肝心要の中身は随分と白くなっている。白という色はどんなイメージだろうか?「純白」「色白」「純潔」「無垢」「清潔」などだろうか。CMYKで白と言えば印刷されていない部分。色が無ければ白、全部の色があると黒となる。産声をあげて生まれたときは、真っ白であったと信じたい(クリスマスと大晦日の合間の、年末のせわしい朝だったらしい)。14歳という節目に様々な色の存在を知る(アニメや漫画の主人公は決まって14歳が多い)。年を重ねながら、たくさんの色を知り、創ったり、染まったり、重なったり、無害だったり、そして自分だけのオリジナルになる。そんな絵空事で、レゾンデートルが確立されると疑うこともなかった20代。その頃はインドに行きたくてしょうがなかったが、結局まだ行っていない。
昨年の夏から突然、再び文章を書くことを始めた理由がここにある。
色彩を失っているかもしれないという焦燥、いや恐怖に近いか。
『チ。ー地球の運動についてー』という魚豊さんが描いた漫画のワンシーンに、「第三者による反論が許されないならそれは信仰だ」という言葉がある。天動説がすべてで、それ以外の異端思想は火あぶりにされていた時代に、地動説を証明することに自らの信念と命を懸けた者たちの言葉である。その後、このように続く「信仰の尊さは理論や理屈を超えたところにあると思いますが、それは研究とは棲み分けられるべきでは?」。そして物語は進み、いくつかのバトンが渡った次のシーン(単行本では4冊ほど先)。
「疑念と信心。二つ持っていて不都合が?」
「ええ、不都合だ。その二つは矛盾する。」
「聖アクイナスは、知性を一方では物体的で他方では非物体的と捉えました。身体と魂、理性と信仰、哲学と神学、疑うことと信じること。これらの矛盾は両立します。何故かー?」
「それが人間だからです。人間は神でも獣でもない。人間はその中間に存在する。でもだからこそ、中間を、曖昧を、混乱を受け入れられる。むしろ矛盾で理性の息継ぎをする。」
僕はこの言葉に、すっかり打ちのめされてしまった。
そして、この瞬間に自分自身に降りかかってきた言葉が「漂白」である。俺なんだか白くなっている。自然と色が抜けて白くなった状態ではない(そのような日はおそらく後20年は先だろう)。当たり前に晒され、同質性に侵され、空気に支配され、詭弁に流され、強制的に白くなっている。見た目は幾分か洗練されたかもしれないが、抱えるべき矛盾が失われているという事実。生きていくためのリズムや湿度、手触りを失うに近い感覚、残念なことに漂白されてもそこに意味は残る。そのくらい意味や理屈は強い、驚くほど合理的だ。
物語の養分が足らない。
まだ果たされていないインドへの旅は、書きつづけることと同義である。歩きながら、物語の欠片を思い出すたびにメモをする。たくさんの書き留めておきたいことがあることを知る。そしてたくさんの忘れてしまっていたことも知る。メモは今朝目覚めてからも増え続けている。元々はこの心境を「漂白」というタイトルで、最初のnoteに書こうと考えていた。けれども、自分自身にも、読んでくれる人たちにも伝えたいことは自分の心情の吐露ではなく、物語の欠片たちだ。そう考えひとつめの欠片は、熱と縁のエピソードである「ビョークに導かれて屋久島の送陽邸に泊まった話」にした。それでもこの焦燥と恐怖は理性や理屈を越えて、書かざるを得なかった。
引用ばかりで恐縮だが、スティーヴン・キングの『書くことについて』の一説を持って、戒めとしよう。
「ものを書く時の動機は人さまざまで、それは焦燥でもいいし、興奮でも希望でもいい。あるいは心の内にあるもの全てを表白することはできないという絶望的な想いであってもいい。拳を固め、目を細め、誰かをコテンパンにやっつけるためでもいい。結婚したからでもいいし、世界を変えたいからでもいい。動機は問わない。だが、いいい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰り返す。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。」