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パーリ語経典をちょっと勉強してみる♯002

 今日も勝手にパーリ語経典読もうと思いました。
 私は思いました。
 仏陀の言葉にフォーカスした方がよさそうだ、と。

 前後の脈絡がなくとも完璧に語られている仏陀の言葉をストレートに翻訳してもし、あまりに難しいことを言っているようならそこから前後の脈絡を考察して深掘りしていったほうがいいなと。

 大体当たり前のことを話している、私たちの無明があっても理解できる程度のレベルの話であれば誤解は生じないだろうと思ったからです。

 あとは、仏陀の言葉を最初に頭に入れることで後から意味がわかることもあると思うのです。

 ここで最も意味のないことは仏陀それ以外の言葉に引っかかることです。
 この人なんていってるんだ?と分かったところで仏陀のエッセンスは一ミリも受け取れません。

 だったら先にメインディッシュを取り入れて役立てたい。

 仏陀の言葉を学ぼうと思ったのは仏陀という正当覚者を知りたいからです。

 私たちは解脱やら悟りやら言っていますが本物を知りません。
 本物はどんな光を放っていたのか、それだけでも知りたいと思いました。

 そもそも誰がいつ死ぬとも知れない世界ですから一番大事なことをさっさと片付けてしまいましょう。

 さて、今日の仏陀のフレーズ


 Mamaṃ vā, bhikkhave, pare avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, dhammassa vā avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, saṅghassa vā avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, tatra ce tumhe assatha kupitā vā anattamanā vā, tumhaṃ yevassa tena antarāyo.

  比丘たちよ、異学のものたちが、あるいは私を誹謗して語り、あるいは法を誹謗して語り、あるいは僧伽を誹謗して語ったとして、そのとき、もしあなたがたが、あるいは怒り、あるいは不愉快であるならば、あなたがたには、そのことによる妨げがあることでしょう。

Mamaṃ vā, bhikkhave, pare avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, dhammassa vā avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, saṅghassa vā avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, tatra ce tumhe assatha kupitā vā anattamanā vā, api nu tumhe paresaṃ subhāsitaṃ dubbhāsitaṃ ājāneyyāthā’’ti?

比丘たちよ、異学のものたちが、あるいは私を誹謗して語り、あるいは法を誹謗して語り、あるいは僧伽を誹謗して語ったとしても、そのとき、もしあなたがた が、あるいは怒り、あるいは不愉快であるならば、いったいあなたがたは、異学のものたちの善説・誤説を了知できるでしょうか

 前回の続きで、より深く前回の言葉の意味を仏陀自身が翻訳しているようです。

 大きく違うのは前回は自分という視点から語られましたが、今回は語られている側に視点が置かれているような気がします。

 特に、相手のいっている言葉の意味も自分の中に嫌だという感情があれば何も入ってこないんだよという話が痛烈に深いです。

 誰でも身に覚えがあるんじゃないでしょうか。
 相手がどれだけ良いことを正しいことを言っていても自分の中に怒りや不機嫌があれば何も頭に入ってこない。

 ということです。

 ここで私が注目したいのは仏陀がこれをどのように語ったかです。

 直訳します。

 Mamaṃ vā, bhikkhave, pare avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, dhammassa vā avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, saṅghassa vā avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, tatra ce tumhe assatha kupitā vā anattamanā vā, tumhaṃ yevassa tena antarāyo.

私 あるいは 比丘、他の 誹謗 語る、法 あるいは 誹謗 中傷 僧 あるいは 誹謗 中傷、そこで あなたたち ある 怒った あるいは 不快 あるいは あなたたち それ 障害

Mamaṃ vā, bhikkhave, pare avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, dhammassa vā avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, saṅghassa vā avaṇṇaṃ bhāseyyuṃ, tatra ce tumhe assatha kupitā vā anattamanā vā,

なんとフレーズがここまで前の文とまったく同じ
覚えやすいようこうなっているのかな

api nu tumhe paresaṃ subhāsitaṃ dubbhāsitaṃ ājāneyyāthā’’ti?

api けれども nu ~ではないか(するのか) tumhe おまえたち paresaṃ 他の異学subhāsitaṃ 善く説かれた(善い教え)dubbhāsitaṃ 誤って説かれた(誤説)ājāneyyāthā 了知する(理解する)’’ti? といって、このように、ゆえに(どのように)

私が意訳します。

私たちもあなたたちも他の僧に誹謗中傷を語られそこで不快になったり怒ったりすればそれは障害でしょう。
あなたたちは異学の教えが例え善いものでも誤ったものであったとしても、どのように理解するのでしょうか。

 こう聞かれると理性のある人ならばすぐに自分の中にある怒りや不快といった感情が自分の持つ見解にバイアスを掛けるということが見えてきます。

 それから仏陀が説かれたこの一文だけで人は情報を得るときに大なり小なり感情に左右されながら物事を判断していると分かります。

 仏陀は会議の場で騒いでいる多くの比丘たちには悪説も善説も関係なく、感情が大きな問題となっていることを見抜いたのかも知れません。

 わざわざ障害だと2回も立て続けに言ったのは怒りを抑え冷静さを取り戻させるためだったのかもしれませんね。

 とにかく感情というのは物事を見るときに必ず障害となるということです。
 仏陀は誹謗中傷を気にするなと言うだけでなく、何が良い話か何が悪い話かを見極める心を乱すなというところまで掘り下げたのでしょう。

 これは日常生活にずっと及ぶ深い教えです。
 これが一番冒頭にある理由がわかりませんでしたが、今日初めて分かった気がします。
 一番分かりやすくて一番使えて、一番核心を突いているからかもしれませんね。

 私はそう思います。

(だから経典って聞いただけで閉じるなよという話かも笑)

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