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南京事件の定義の下書き

さて、南京事件を語る前にその[定義]ついてお話しします。
私の立場は、前に書いた通り3番目の[戦時宣伝]という[虚偽]であるという立場です。
日本の南京事件についての研究の経緯は、日本と中国の国交樹立の交渉へ関与するために、先に1番目の中国共産党に近い立場の学者が、大量の殺害を[主張]をしました。彼らは[虐殺]という用語を好んで使いました。
次に2番目や3番目の立場の人々が反論するという流れで研究が進みました。
1番目の人々があげた[証拠]に[批判]を加えることで、2番や3番の反論は展開されています。
当然ながら、[Probatio diabolica]又は[Evidence of absence]はできない。
[ないもの]を証明すことはできませんので、1番の[証拠]に[批判]を行い、その蓋然性を破壊してきました。

私はコンサバペディアの[南京事件]を読んで驚きました。
コンサバぺディアは、保守のアメリカ人が作ったと日本で知られています。
しかしその内容は、日本では共産主義者か社会主義者(共産主義に近い立場)しか言わないような内容です。
または、戦後のGHQによるソ連のスパイによって作られた占領政策で、watchdogsの[Science Council of Japan]の大学教授やそれを支持する人々しか言いません。
そして参考にしているのも少なすぎて、日本の研究者ならば必ず読まなければならない研究書籍すら入っていません。
本当に保守の方が作られたのかと疑っています。
私は本当に驚いています。

知識は、重要で大きな事件になると大量の知識が必要となってきます。
日本では、かなり研究が進んでいますので、大量の史料からの情報が提示されています。
せめて、イエール大学のサイトぐらいは、紹介があっても良いと考えています。
無知識は、誤解を生みます。
無知識は、偏見を生みます。
無知識は、敵意を生みます。
私はそのように考えています。

まず、日本での「南京事件」での[虐殺(masscre)]の[定義]を知ってください。
あなた達がそれを理解することを希望します。
日本で「南京事件」での[虐殺(masscre)]の[定義]は、次の[条約]に違反したものです。
1899 Convention respecting the Laws and Customs of War on Land
1929 Convention on the Treatment of Prisoners of War (Geneva Convention)
1949 Convention on the Treatment of Prisoners of War (Geneva Convention)
1998 [The Rome Statute of the International Criminal Court]or[ICC Statute]
という条約に[違反]する[行為]です。
これは、1番目の主張をとる大学教授が使う定義でもあります。概ね学術界の定義と考えています。

最近、BBCなどメディアの報道(https://www.bbc.com/news/world-australia-54996581)で、オーストラリアの特殊部隊が2009年から2013年までに行なったとする[戦争犯罪]が話題になっていました。
オーストラリは、2002年に1998年の[The Rome Statute of the International Criminal Court]or[ICC Statute]に署名と批准発行しています。

日本の[虐殺]の[定義]を知って、気がついた人々はクールな観察眼です。
そうです。[法律]と[条約]です。
なぜ日本ではこの[定義]に至ったのか。
加計社(元日本兵・退役自衛官の研究会)は、1984年から1985年にかけて『証言による南京戦史』を11回シリーズで機関誌に掲載し、それを要約・再分析し、1989年に『南京戦史』and『南京戦史-資料集1』and『南京戦史-資料集2』の全3冊の研究書を刊行した。
その中で[虐殺]を定義した。
先行研究をしていた1番目の学者は[定義]しなかった。
加計社は、[日本兵の凄惨な行為]を曖昧な[定義]しかしなかった最初の学者を批判した。
その定義は現在、最初の学者たちも使っている。

さらに気がついた方がいれば、もっとクールな観察眼です。
1998年の[The Rome Statute]で、国際社会の中で[罪科]と認められて[犯罪]ということになりました。
1998年にです。南京戦闘は1937年です。
そして、フランスを例に挙げるとこの条約を元に自国の憲法および国内の法律を改定しています。
その中で[Nulla poena sine lege(https://en.wikipedia.org/wiki/Nulla_poena_sine_lege)]を前提としています。
Nulla poena sine lege praevia
Nulla poena sine lege scripta
Nulla poena sine lege certa
Nulla poena sine lege stricta
アメリカの憲法と法律はわかりませんが、
最近話題になったのは、BBCの[トランプ氏、米軍の戦争犯罪捜査のICC職員に制裁](https://www.bbc.com/news/world-us-canada-54003527)という報道です。
このBBCの報道は間違っていて、[The American Service-Members' Protection Act]というアメリカの法律と同盟諸国と結んだ98条合意という条約からである。トランプ大統領でなくてもこのような制裁措置を発動するようになっている。
BBCの報道は誤解を与えるmalicious報道であると考える。

この二つの事例からわかることは、
[Nulla poena sine lege]と[法律]によっては、[拘束]は受けないということです。
つまり、1998年より以前は[戦争犯罪]というものが存在しません。
しかし、1946年〜1946年の極東国際軍事裁判で、裁判官達は、松井石根大将を戦争犯罪と判決を下しました。
そして処刑されました。
その[罪状guilt]は、[犯罪的責任]という[罪状guilt]です。
それは[犯罪]ですか?
そのような[犯罪]がありましたか?
[Nulla poena sine lege]を思い出してください。

私は、前置きが長くなってしまいまして、全く南京事件に進めません。
しかし、重要なことなのでどうしても言わざるを得ないのです。
さらに私が言及しておくことは、
[戦闘行為]は、そもそも[殺害]も手段にして、[目的達成]を行います。
つまり、[不道徳]な行為でとても[残忍]andとても[非人道]andとても[非人権]です。
現在は、国際連合憲章で、戦争の禁止、平和的解決を義務付けています。
この[戦争]という言葉に問題があります。
[戦争]とは、[宣戦布告]を伴った[正式な国家同士の決闘]を言います。
真珠湾攻撃)でも日本は「臆病者」と言われました。
しかし、アメリカをはじめとする戦勝国との外交ルートを通じて[宣戦布告]しました。
しかし、[宣戦布告]を伴った[正式な国家同士の決闘]は、国際連合憲章で禁止されています。
しかし、現代でも、[戦闘]は行われています。
つまり、[不道徳]な行為でとても[残忍]andとても[非人道]andとても[非人権]は、国家と団体の間で行われています。
過去には、中国共産党と中華民国、朝鮮半島戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタンでのテロとの戦い、最近では、インドと中華人民共和国の国境沿い。アルメニアとアルゼバイジャン。ロシアとウクライナ。アフガニスタンでの関係諸国とテロ組織との戦闘の継続。
これらと国連憲章のいう[戦争]と何が違うかというと[宣戦布告]という[法執行]を行う[戦闘]ではないからです。
[宣戦布告]を伴った[正式な国家同士の決闘]ではありません。
ですから、[紛争解決]の[手段]として行われています。
南京事件は、支那事変というおなじく[戦闘]であり、[宣戦布告]を日本と中国が双方行ったものではありませんでした。
全く、現在の[紛争]などと呼ばれるものと同じものです。
第二次世界大戦の後も[戦闘]は、国際社会では、平和的解決とはいわないまでも、紛争解決の手段に使われています。
それが[解決]につながっているかどうかは、別の話です。
つまり、[戦闘行為]が[不道徳]な行為でとても[残忍]andとても[非人道]andとても[非人権]が、不本意ながらも暗黙の状態で許容されていることになります。

南京事件までは難しいですね。
最初の人が[ジェノサイド]を[残忍]で非常に[非人道的]と定義しても、そもそも[戦闘行為]がそのようなものである限り、[定義]にすら該当しない。
単純な論理です。
国内で起きる[殺人]と異なるといえば、理解していただけますか?
最近の2020年11月21日に起こった[アメリカのショッピングモールで銃乱射(https://www.foxnews.com/us/wisconsin-mall-shots-reported-active-situation-wauwatosa)]のような[事件]とは異なる次元の話であると理解してほしい。
当時は、戦闘状態でした。
さらに、日本は、1929年の「捕虜の処遇に関する条約(ジュネーブ条約)」を批准し、発行していない。したがって、日本は、捕虜の処遇に関する国際法に拘束されていない。また、その義務もない。
日本国外務省の歴史Q&Aの[6]に[捕虜]が記載されていないのはこの理由からです。
また、国際法には『信義誠実の原則Good faith (law)』と『兵士と非戦闘員を分離する原則』というのがあります。
戦闘行為を行うものは、[徽章]の着用を義務付けています。つまり軍服のことです。[義務]です。
そして非戦闘員といえども戦闘行為に参加すれば、攻撃対象になります。
[戦闘行為]の種類には、基本的な[攻撃]だけではなく、[輸送]や[偵察]、[陣地構築]などもある。
瞬時の判断が要求される場合は、[誤認]であろうと[攻撃]される。
現代ならば、暗視スコープや遠隔操作などのドローンにつけたカメラなどでの偵察もできますが、
戦地で敵軍の陣地近くを動くような非戦闘員は、兵士または戦闘行為に参加していると誤認されても仕方がありません。
以上のことが、前提としてある[虐殺]の定義となります。
そして、監視をする国際組織は同行しません。

次に、南京事件の人口と期間について。
コンサバティベアのNanking massacreの記述をもとに、それに対する反論の形で当方の主張を説明させていただきます。
そのページには、[the Japanese military murdered 100,000 to 300,000 Chinese after conquering the city of Nanjing]と書かれています。
[征服]というような感情的な文言を使っておられますが、日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後、アメリカは征服という用語を使うでしょうか。
[征服]という用語をテキストに書いた人物は、私はすこし幼稚で感情的だと考えます。
[after]ですので、南京が陥落後と考えます。
南京の陥落は、12月13日の朝です。12日に防衛軍の司令官の唐生智が南京から脱出し、その日の夕刻から中国軍は北方の揚子江のある下関へ通じる挹江門へ向けて、退却を始めています。
しかし、挹江門前では、同じ防衛軍の一部の軍隊が門を守備し退却部隊に攻撃を加えました。同士討ちです。参考図書にされているアイリス・チャンの[レイプ・オブ・南京]にも記載がある通りです。
その際の戦闘で南京で最も豪華な建物であった[交通省]の建物が炎上しています。
その後、日本軍の入城侵入と共に掃討作戦が行われています。26日まで続きます。
残留し抵抗を試みる中国軍の掃蕩と、降伏した捕虜の整理です。
中国の都市の特徴を説明すると、高い城壁で囲まれた城内と門前町で構成されています。そして周辺農地です。
ニューヨーク・タイムズのダーデン紙が12月8日に掲載した記事では、唐勝地司令官は南京周辺の非戦闘員に国際機関の安全地帯に避難するように[命令]している。
有名なジョンラーベの日記にも同じことが書かれている。
そして、彼は日本軍が市外で使用する可能性のある家屋を燃やし、破壊し始めた。市の北部、揚子江の波止場でも行われている。
この記事には、8日に南京に到着したパターソンという人物による報告もあり、下関でも蘇州城でも支那人が火をつけたと証言している。
その後、9日には全ての門が閉じられている。一部挹江門のみ若干の出入りができるようだった。
しかし、13日に到達した日本軍や従軍記者の写真には土嚢が高く積み上げられて閉ざされている感じである。
そのため、12日の現場から逃走した軍人たちは、身につけていたものをつなぎ合わせ、城壁を降りて下関桟橋までロープで逃走したと考えられます。
それを裏付けるアメリカ人記者の残した写真があります。
つまり、一度城内に入れば、一般人は出られない状況です。
The Tokyo courtで提出された[埋葬記録]として、中国が大量の埋葬した2団体の資料を提出しました。
一つは、紅卍字会。もう一つは、崇善堂です。
紅卍字会の城内で発見した遺体の埋葬数は、5,000名程。
崇善堂はの城内で発見した遺体の埋葬数は、7,000名程。
陸地の遺体は、勝手に移動しません。合計14,000体程。
残りは、城外となる。
しかし、崇善堂が城外の陸地の埋葬を行っているが、数値は10万以上です。
但し、この崇善堂という団体は、当時の欧米人の記録や占領政策を行っていた日本軍関係の専門部署の記録に見つけることは出来ない。
そして、埋葬活動を行っている[行動]の記録も無い。
紅卍字会は、日本の日蓮宗の僧侶と埋葬活動を行っているので、日本の新聞記事にも見られる。
安全区という一応在留アメリカ人やドイツ人が立ち上げた避難民地区の欧米人の記録にも一切見られない。
東京裁判のみで埋葬活動を大規模に行った団体としてその埋葬数の記録を提示しているが、これも実物ではなく裁判の為にまとめた資料にすぎない。original itemではない。
当時在留の欧米人の記録を読んでも、15日迄に敗残兵と便衣と成って捕虜と成り得る権利を失った兵士を城外に移送したことは目撃されているが、日本軍内の噂としての数値的でも7,000程度であったと考えられている。その他にも数千の敗残兵を殺傷したという記述も存在するが、降伏した[捕虜]を殺害した訳ではなく南京城外周辺での[戦闘行為]としての[殺害]として認識されている。
日本軍が十万以上の大量の人々を城内から移送したという記録は見つけることができない。
結果として60万人の兵士と非戦闘員の存在は情報が少なすぎて推測できない。
私は陥落前後の記録として残っている数値を紹介します。
1936年3月末 1,019,667名 中国首都警察調査
1937年11月22日 200,000名 ニューヨークタイムス
1937年11月23日 500,000名〜200,000名へ減数する推測 南京市長(Ma Chaochun)
1937年11月28日 200,000名 ジョンラーベ
陥落後
1937年12月22日〜1938年1月5日 150,000名 16師団の調査
1938年1月6日〜2月25日 100,000名 the Special Service ⌈Agency [Organization] of Nanking
合計 250,000人
1937年2月末 200,000人 the Special Service ⌈Agency [Organization] of Nanking
1937年12月17日 200,000人〜250,000人
1938年3月15日 221,150人 War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938
1938年3月15日 300,000人 War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938
1938年7月 200,000人 Harold John Timperley[WHAT WAR MEANS]
1938年10月末 329,488人 the Special Service ⌈Agency [Organization] of Nanking
1939年10月末 552,228人  the Special Service ⌈Agency [Organization] of Nanking

この数値から考えると、60万はおろか30万の人口も考えにくい。
城外に非戦闘員(避難民)が存在したことは事実であり、下関の東の揚子江沿いのエリアや現在記念館が建っている江東門の北西のエリアの寺院にも存在の記録が残されている。
戦場になる恐れがある場所に、逃げ遅れた非戦闘員が10万以上もいたということは考えにくい。
日本軍は一度に大量の人数で攻撃できるわけではない。
日本軍は戦略的要地と重要拠点を攻略する為に人材資材を投入している。
基本的には、4方向からの南京城へ迫っている。一々軍事陣地周辺以外の非戦闘員を捜し出して殺害している暇はない。
陥落後の話としても、大多数の各部隊は現在紛争継続中のため、他の都市の攻略へ移動している。
1937年12月26日以降は、16師団の一部と南京を警備している。
基本的に、1938年1月に南京自治委員会が設立されて、中国人とthe Special Service ⌈Agency [Organization] of Nankingで南京の行政を行なっている。

次に、南京事件の期間での[定義]は、1937年12月3日から1938年3月15日としています。
終了日は、1938年3月15日は、Lewis Strong Casey Smytheが書いた報告書の終了日を基にしている。
なお、このスマイス報告書(https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938)は、東京裁判に証拠として提出されたが、証拠として利用されなかった。
Lewis Strong Casey Smytheについて。
南京大学教授。金陵大学ともいう。蒋介石から雇われていた御用学者の一人。社会学者。
彼は、南京安全区という避難区の実質上のナンバー2でした。1番はナチスドイツのJohn Rabeではなく、実質的には、Miner Searle Bates。
二人ともキリスト教の司祭でもあります。
彼は、日本軍との安全や食料、生活についての交渉や陳情書、[城内]の安全区やその周辺で起こったことについて抗議文を提出している。
それらをまとめたものが、Ph.D. Shuhsi Hsu[documents-nanking-safety-zone]です。

南京事件に関する期間としては、日本軍が南京城壁より外の約20kmにある湯山、堯化門、仙鶴門、淳化鎮、牛首山などの中国軍の防衛陣地攻略から始まり、スマイス報告書の最終日と考えています。
最近、オランダで南京で日本人から避難民を守った人物の像と記念式典を行ったとういう報道(https://www.bbc.com/news/world-europe-49524779)があったが、彼がいた棲霞山寺は中国軍の揚子江近くの南京の東北方面20km程度の場所で、中国軍41師団が守る敵陣地の近くです。
しかし、日本軍は13師団の別動部隊が到着した際は、中国軍は存在せず退却した後です。
戦闘もなく夜であったので、休憩もせずに通過しています。
1938年1月26日にナチスドイツの領事館のローゼンがドイツ本国への報告書としてこの事件について書いていますが、棲霞山寺から南京に続く村々のことで、43名の殺害を報告しています。あまりに少なくて数値的に目を疑ってしまいますが。

今回は、南京事件における[虐殺]と[期間]について説明させていただきました。
では、次回から個別の問題を取り上げていきたいと考えています。

Kaikosha (偕行社, Kaikōsha) is a Japanese organization of retired military servicemen whose membership is open to former commissioned officers of the JASDF and JGSDF as well as commissioned officers, warrant officers, officer cadets, and high-ranking civil servants who served in the Imperial Japanese Army.

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