【なぜリベラルは負け続け、いつまでも現実を変えられないのか?「百田尚樹現象」から見えてくること −現代ビジネス編集部の佐藤慶一氏による石戸諭氏へのインタビュー−】への異論
現代ビジネス編集部の佐藤慶一氏による新刊を出された【石戸諭氏】への販促インタビュー内容についての異論を殴り書きしてみる。
なぜリベラルは負け続け、いつまでも現実を変えられないのか?「百田尚樹現象」から見えてくること
(現代ビジネス編集部/取材・文:佐藤慶一、写真:西田香織)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74055
というのが掲載されていたので、リベラル側の視点で百田氏やその周辺についての言及されることへの【分析】が書かれている書籍の作者の紹介らしい。
百田氏は、影響力が広く・強く、著作などもヒットしているのが現状で、彼自身が【右派】なのかどうかは不明だが、【保守】ではないと自分で言って居られたのは【虎ノ門ニュース】などで聞いたことがある。
あと、藤岡信勝氏などへもインタビューしたようである。
人間を批評する上で、大事なのは、全部がダメ、全部が良いではなく、ここは良くてここは悪いとフェアな視点から描きだすことです。
このフレーズであるが、チャンネルくららの倉山満氏が良く言っているフレーズである。基本的に近代史の事項に付いての知識と理解が出来てない人物にはたして評価できるのだろうか?全くの疑問である。
今の右派論壇が抱えている強烈な少数派意識の現れです。
右派論壇と区分けしてしまうことに【無理解】の前提の一つが発生しているのではないだろうか? 右派とか左派とかでは、例えば【保守】はどちらになるのかとかあるので、こういった【レッテル】貼りをすることで、既にリベラルの根本的な間違いが始まっている。人間を見ない。本来人間が厳密に区分けできる程単純ではない。
また、【少数派意識】というマイノリティーであるということを嚆矢に、【南京大虐殺】を主張する大学(教育界)・メディア・法曹会・政治家の【主張】に対して反論しているわけではない。そもそも日本人に【南京大虐殺】を【事実】とするかどうかを調査したことはない。マイノリティーかメジャーかどうかも判明していない。
正に、【適当】に言っているだけである。
朝日新聞を筆頭にリベラルメディアを仮想敵とみなして
朝日新聞を筆頭とする【リベラル】が、容共、すなわちソ連から続く共産主義の系譜をひいていること、現在は中国共産党・北朝鮮人民共和国の共産主義に同調・擁護・容認する立場にあることは、【直接】的な言及はなくても、沖縄の琉球国化、北海道のアイヌエリア化などの分裂かと、相反するような【コスモリアン(国境を持たない人)】という【無政府主義】と【共産主義的未来】への希求が認められるので、【仮想敵】ではなく【現実的な敵】という認識形成の芽が出ているのに気が付いていない。
末端の【記者】の個々思想性は、微々たる事例であり、【社是】として【仮想敵】が【日本国体制】である以上は、日本国及び日本人の【敵】であるという意味合いが理解されてきていると言うことである。
一般の日本人で、日々の業務や社会生活で忙しく過ごして、自分達の幸せを追求している人々が、リベラルか右派などということは実際には関係が無い。
しかし、【社会体制】や【社会秩序】の崩壊を目指すという意味での【共産主義】を容認する【共同通信】【朝日新聞】【毎日新聞】 etc.などは、【支持】される訳ではないことがここ数年の韓国・北朝鮮人民共和国側の対応や中国共産党という軍事圧力をかけて恐喝してくる国家への【理解】を踏まえて、それを【擁護】又は【放置】するメディアに対する【不信】と【敵意】は認識すべきである。
この人物が見ていることは、【狭視】による【日本の特定の業界のみ】を見ている。実際は、流動する国際社会の様相が日本国民が、リベラルが日本国民から目を背けようとしている【現実】を捉えて判断しているだけなのである。
今の右派で一番面白いのは、歴史を重んじているように見えて、歴史から断絶していることです。
因みに、【歴史】から断絶していると言う事はどう言うことか判らないが、こういう手合いのリベラルな人物達が【教条主義】に走って、【歴史修正主義】などと【現実】から目を閉ざしてきたことに起因していることは間違いがない。
【歴史】を【直視】してこなかったのが彼らである。リベラルの特徴は、【感情】が【キーワード】で、【可哀相】とか【酷い】という【感情用語】によってあらゆる【歴史】を【評価】すると言う事である。
【例えば南京大虐殺、慰安婦問題】などは、その際たるもので【人権】と言うよりも【可哀相】【酷い】【辛い】という【感情用語】で一般人や子供への教育で訴及・普及させてきた。
【オーラルヒストリー】などと言う【歴史学】の【民俗学】で、文字文化の無いエリアや文字に依らない【昔話・昔歌・口伝】などの蒐集に効果を発揮してきたいわば【史料収集】という【手法・技術】を利用した【証言】を【重要なエビデンス】に据えるという馬鹿げた行為を行って、【可哀相】【酷い】【辛い】を【虚偽】か【事実】かを【精査】する必要があるはずの【事例】に対して、【精査】することなく【事実】として【重要なエビデンス】にしている。
これは、【南京大虐殺】や【慰安婦】などの【被害者】と称する人物の【証言】である。それが【実証】出来るという点では、【不可能】であり、【可哀相】【酷い】【辛い】を利用し、その【実証】を【拒否】し続けてきた面もある。アイリス・チャンなどは【セカンド・レイプ】などという【表現】を使って、【実証】を【妨害】してきた経緯がある。
本来、歴史学的に言えば、南京事件の戦時宣伝(プロパガンダ)を研究されておられる松尾一郎氏の史料の分類をあげると、
【第一次史料】《誰が》《何時》《場所》の3条件が明白な史料。
【第二次史料】第一次史料の《3条件》の内一つでも欠けた史料。
【第三次史料】第一次・第二次史料を元に書かれた史料。
【第四次史料】関連性はあるが、3つの条件が全て欠ける史料。
【第五次史料】関連性が全く無い史料。
上から、蓋然性が高くなり、低くなる。
歴史学は、重要なエビデンスには、【第一次史料】をもとにすべきであり、且つ、その【第一次史料】も【精査】する必要があるのは言うまでもないが、それ以下の【蓋然性は低く】は【絶対要精査】か【使用に値しない】なのである。
例を挙げるとSNSでよく使われて、【肯定】のエビデンスにされる【三笠宮崇仁親王殿下】の書籍などは【第五次史料】に当たる。
情報量の少ない一般人ならまだしも、大学(アカデミー)などの教育機関、メディア、法曹会という【権威】のあるある種の【権力】を持つ人々までが【南京大虐殺】という場合は、第二次史料以下の【史料】でもって【存在】を【絶対視】しているので、極めて蓋然性が低い【証明】と言う事なのである。ほぼ【可能性】に留まっていて、【事実】【史実】とは程遠い現状にある。
そういう事をいつまで経っても改めない、又2000年から公開されたヴェノナ文書からの認識を理解しない、大学(アカデミー)などの教育機関、メディア、法曹会という【権威】に対する【情報】を知り得た人々からの反論なのである。
この辺の認識が全く欠落しているという杜撰な分析である。当然百田氏・藤岡氏に至っては、ソ連や共産主義者の工作と言う面でのヴェノナ文書への理解はもっておられる。もっいない拒否しているのはリベラルの【権威者】達である。
現在の右派が歴史から断絶していて、常に自分たちにとって、一番新しいと思っているからでしょう。
どこまでも頓珍漢な分析をしている。例えば、国立公文書館アジア歴史史料センターや国会国立図書館デジタルアーカイブなどで、過去の史料を調べることも出来るので【新しい論】という事はあり得ないし、過去の主張を【繰り返し】述べているに過ぎない。何時までも【事実誤認】を繰り返している上記の【権威】への繰り返し批判をしているだけなのである。
新しいからしているわけではない。一般人が、【無知】と言う事ではない。この人物よりも【趣味(本気の趣味)】であろうと【膨大】な【専門知識】を有する人物が【一般人】にも居るのを全く理解していない。ジャーナリストやノンフィクション作家のみが【知識】を保有しているわけではない。
この辺が、こういったリベラル指向性の人物の【傲慢】に感じてしまう。恐らく事実【傲慢】であろうし、【慢心】でもある。故に現在の状況が生まれているわけであり、SNSなどでのやり取りを見ていても、【史料】や【文献】などの情報を提示して【言説】を行えるリベラル系の人物はほぼ居無い。【知識不足】である。
何故、このような事が起こっているかというと【歴史修正主義者】や【ネトウヨ】とレッテルを貼り、【史料】には【史料】をもちいて【議論】し《デバッグ》を怠ってきたと言う事を疎かにしてきたことに起因している。
右派の方が読者やマーケットを大事にしてきたことです。
一般人を【馬鹿】にしている証拠だろう。マーケティングだけで百田氏の書籍が売れたわけではない。周辺国への国際状況などを広く知識を得た一般人が増えたという事が起因している。論理的・史料的に破綻している【リベラル】の【教条主義的な主張】をいくらマーケティングしても受け入れられるわけがない。特に【国際社会】の【動向】を無視して、【ポリコレ】に邁進し、【差別】というネタで、【社会分断】をせっせとおこなってきたリベラルに人々がその論理で【現実認識】の手助けになることが出来ないし、主に、共産主義・社会主義者という軍事脅威である中国共産党や拉致被害の解決を無視し、ミサイルの試射などを行う反国際社会敵北朝鮮人民共和国に関係のある人物が多いリベラルの団体や組織の【主張】にどれだけ一般の方達が耳を傾けるというのだろうか。【和解】【平和】などと言う【耳障りの良い】【言葉】とは裏腹に、【抗日】を掲げて【社会分断】【敵対行動】を行っている【現実】を【amnesia】状態になっているのはリベラルである。
一般の方はそれ程【馬鹿】ではない。【状況】を把握する能力や知識があるのである。このような【目を逸らせたい】という欲求で為された【的外れ】の【認識】こそが、【リベラル】をますます日本社会の中での【萎縮】させ【隅】に追いやっていくだけなのである。つまり【リベラル】を支持する裾野が狭まったことを意味している。
マーケットの問題にするなど、リベラルの本質的問題を他人に押しつけているだけなのである。責任転嫁も良い所だろう。
右派における南京大虐殺や慰安婦問題が、左派にとっての「反安倍」です。最新型はハッシュタグでムーブメントを起こそうという動きです
何にせよ、他国、中国共産党や韓国、北朝鮮人民共和国の行動を忘失して、ハッシュタグ云々など、全く意味が為さないことに気が付かないという情けない話に気が付いた方が良い。右派や左派という区分自体が間違っている。
僕はいま求められているのは、理解するための議論だと思っています。あなたたちはどういう考えなのか、なぜそう考えるのかを理解する。最新のエビデンスでは、理解しあう議論を通じて、世の中が多様であることを認められるようになるといいます。これは当たり前の話なんだけど(笑)
【歴史修正主義】として、そもそも【議論】を切って【対話】すらしないのは、権威主義の塊である【大学】などの【教育機関】ほうである。【世の中が多様であることを認められるようになるといいます。】というのは、議論の問題点のすり替えだと考える。
【南京大虐殺】を【盲信する人々】というのは、そういう【主張】をする大学の研究者を始めとして【存在】していることはとっくに【認識】している。では、彼らの【主張】が【認められるか】というと、彼らが【歴史修正主義】として【認めない】と同様に【認められるわけがない】のも現実である。
【話し合えば】ということで【理解】出来るならとっくの昔に理解出来る。この人物もインタビューを試みた結果、彼らの論旨をどれだけ受け入れたのか書いていないし、結局はこの人物自体も【拒否】している。日本国はとっくの昔から【世の中が多様である】のが現実である。寧ろマルキストが全盛の安保闘争の学生運動が盛んな頃の方が、より【多様性が認められない世の中】であったと考えられる。
ファクトチェックだけだと言葉が貧しくなりますし、「無敵の論法」で上からチェックするとなりかねない。しかし、ファクトチェックそれ自体は手法の一つにすぎません。それだけで相手を説得できると思っている人もいる状況はまずいと思います。
今までのSNSなどのやり取りの経緯から、ファクトチェックでは【言葉が貧しい】云々は別として、【相手を説得でき】たことは先ず無い。これは【リベラル側】でも同じ事であろう。最も問題なのは、【対話】を【拒否】する行為にあったりする。又は使用不可の言語を引き出してSNS上で凍結などに追いこむなどする手法であろう。これは双方でのやり合っているが。
実際には、【やり取り】に参加することよりも【眺めている人達】をどれだけ【説得】出来るかが、SNSでのやり取りの重要な所なのである。そう言った意味で、リベラル側は、加工トリミングされたサイトやTVのドキュメント番組に依存していて、史料そのものへの探究及び言及・理解がない。
【ファクトチェック】がなければ、【議論】のしようもなく、単に【感情的な用語】のやり取りになってしまうだけである。全く意味不明である。
でも、僕はそれとは違うやり方で、「わかりやすく複雑だと書く」ことを大事にしていきたいです。
ジャーナリストやノンフィクションライターが、一人で【事態】を把握し、自分で理解し消化し、それを伝えることができることが難しい時代になってきた。
何故なら、一つの【論】や【主張】をしても、それはその【ジャーナリスト、ノンフィクションライター】の主観を含めた【価値観】による【尺度】に過ぎないことが、SNSなどで【異論】を持つ人物達が【反駁】などを発信するからである。
今回は、書籍を読んだわけではないので、書籍内容については書くことは出来ないが、インタビューからは、この人物の【尺度】があまりにも【狭視】からインタビューの内容を分析していることが判るからである。寧ろ自身の持つリベラルという【容共】に併せたかったという【目的意識】が見える。
こう言うことは、実はノンフィクションと言いながら、情報を加工しているので、【現実離れ】しているという【フィクション】になったりもする。
恐らくこの書籍を読むことはないと考えるが、読みたい方は読めば良いだけで、ただ、【現実】からはなれた【フィクション】として楽しめばよいのだろう。