【反批判】SUKANEKI氏からの批判にこたえて 「メタバース原住民」はインフルエンサー諸氏から利益をうけているか?
はじめに
本記事は【批評記事】『「メタバース」とかいってテレビに出る人たちはもはやプロパガンダしかしてないに対してhttps://note.com/kunitakeyuto/n/n245a487e7fbc
という、筆者の『「メタバース」とかいってテレビに出る人たちはもはやプロパガンダしかしてない』https://note.com/joicleinfo/n/nd350149b8023
に対する批判記事へのリアクションである。
基本的にこのような討論はお互いがどちらかの主張を全面的に受け入れることはないので、長々と続けても仕方がないのだが、一応こちらからもリアクションするのは批判を受けた側の義務だと考え、まとめている。
本記事では、批判記事への疑問点や論旨が不明確だった点を指摘した上で、バ美肉お砂糖は「スタンダード」であるかの再検討と、筆者が持つ今後のメタバースへの展望とメタバース原住民への向き合い方をまとめる。
だがまずは、これに対して言及しておこう。
幅広い交友関係を持たない人にこういうタイプの煽りはしてはいけない(戒め)。
さて、冗談半分のことはこれだけにしておいて、以下では真面目にまとめよう。
1、「原住民に対する潜在的な利益」とはなんであるのか 批判の1つ目として
1-1、「生きにくくない」を示すことは悪魔の証明である
批判記事(以下「批判」)は大きく分けて、「インフルエンサーによって原住民は多大な利益を受けている」「インフルエンサーが政策推進活動の追い風に」「2番、3番の利益の重要さ」(以下第一部)と「相対化について」「原住民はしっかり「居る」」(以下第二部)と「発信が無ければ」「補足」(以下第三部)に区分される。
ここでは、第一部の批判を行う。
まず、ここの中心的な論旨は、インフルエンサー諸氏は、メタバース原住民が「生きにくくならないように」活動していること、それによりメタバース原住民は知らず知らずのうちに利益を得ているということ、行政機関でも「メタバースではNFT」という言説は否定されつつあるということだ。
まず指摘すべきことは、今現在メタバース原住民が「生きにくくない」という事実が既にメタバース原住民にとっての利益である、という主張だ。
そもそも「生きにくい」と感じるほどメタバース原住民が迫害されていたか、あるいはインフルエンサー諸氏の活動がなければそこまで迫害されていたか、ということに疑問がある。
「VR元年」が何度も来ると何度も言われていたように、VRは世間的には全然知られておらず、エンターテインメント施設の「MAZARIA」というVR体験施設も2020年には全店閉館している。要するに、事業として全然うまくいかず、したがって知名度もあまりないというのが、少なくとも「メタ社」改名以前の実情である。
そして「メタ社」が火付け役となったメタバースバブルが到来し、急速に「儲け話」として扱われ始めて来たのが2021年11月頃。そこから7か月で「生きづらい」と思われるほどの迫害は起きるだろうか?あるいはそれ以前に「生きづらい」ほどの迫害があっただろうか?
また、「●●していないということ自体が我々の勝ち取った利益である」というのは、歴史が繰り返せない以上検証不可能なことである。もちろん、より時間が立ち、この時代を振り返る時にそのような評価をすることはできるかもしれないが、この段階でそれを言うのは悪魔の証明といえるだろう。
1-2、「潜在的な利益」とは何か?
次に、以下の部分に注目しよう。
まずこれは書き方のレベルであるが、「足を引っ張る」とはどういうことか?筆者が前回のnoteでインフルエンサー諸氏の活動を、自身の考えをもとに批判・批評したことを「足を引っ張る」と捉えたのでなければ、このような発言はでてくるはずがない。「批判」の執筆者は、自らの活動に対する批判・批評は「足を引っ張る」ことであると解釈しているということがよく表明されている。
さて、このような揚げ足取りのようなことはさておき(便宜上揚げ足取りと書いたが、全然揚げ足取りではない。書き方も含めて執筆者の考え方として扱われるのは当然である)、「潜在的な利益」を最大化することを考える、とはどのような事なのか。
「批判」では、「生きにくくなっていないこと」「行政がNFTとメタバースは正確には関係ないことを報告書で否定すること」ことが書かれている。
これが「潜在的な利益」の全貌なのだろうか?「生きにくくなっていないこと」に関しては上述の通り、悪魔の証明であるため正確に評価できないものである。「行政がNFTとメタバースは正確には関係ないことを報告書で否定すること」は確かに正確なメタバースのあり方を表明する上で大切な事であり、この功績は当然認められるべきであるが、これが「原住民が生きにくくなっていない」ことに結びつくかというと、それは別問題ではないだろうか?
以上の部分でわかるように、第一部のキーワードである「潜在的な利益」は、繰り返し出てきて論点の中心であるにも関わらず、その2つの具体例がどちらも「生きにくくならない」ことに結びつくか評価できないものである。よって、どのような「潜在的な利益」がどう「生きにくくならない」ことの結びつくかが不明瞭であり、当然の結果としてそれを最大化するために協力するべきという主張には説得力が無くなっている。
ここでなぜ「潜在的な利益」という曖昧な言い方がなされ、具体的な例が提示できないかというと、それは「批判」執筆者の怠惰や力不足ではなく、そもそもそういった事柄は数字で扱えないものだからである。定量的な評価ができないので、これを論証するには人文科学的な手続きを経て検証すべきなのであるが、それがなされていないため、第一部は曖昧だが、とりあえず行政機関はメタバースとNFTを分けようとしているらしい、という内容しか示せないのである。
2、インフルエンサー諸氏は正確に事実を伝えているか?
2-1、「相対化について」の論証過程の杜撰さの指摘
つぎに、第2部の批判にうつろう。第2部は論旨をつかむことが難しかった。「原住民はしっかり「居る」」の部分は議論の余地があり、次項で深めつつ論じていくことになるが、「相対化について」は読解が極めて難しかった。それは、この部分の論証が成立していないからである。
まず示されるのは以下の部分である。
敵視しているかしていないかというのは主観的な部分も含まれる。筆者は、前回のnoteにおいて主観的な見地から「敵視さえしている」と書いた。そして、それに対して「敵視をしていない」と表明するならば、インフルエンサー諸氏が「敵視をしていない」と主張する論拠を示す必要がある。
しかし、続く段落では以下のように書かれる。
行政の「留意点」は「インフルエンサー諸氏はNFTを敵視さえしている」の批判の根拠とはならない。つまり、この2つの段落では話に繋がりがなく、論理的な説得力が存在していないのである。
仮に「メタバースではNFTというのは間違い。それに対してメタバースではバ美肉お砂糖というのは間違いではない。それを同列に並べるな」という主張だとしても、ここで筆者は、「メタバースではNFT」も「メタバースではバ美肉お砂糖」も、同じように「メタバース」という言葉に何かを結び付けてパッケージ化して売り込み、宣伝する行為のことを批判しているので、いずれにせよ視点がズレているとしか言いようがない。
次の部分では、インフルエンサー諸氏のふるまいについて論じている。以下がその文章である。
これの根拠として、アシュトン氏のツイートが掲載される。引用に本来は許諾は要らないが、インターネットでは不要な許可バトルが始まる可能性があるので、「批判」を見にいって確認してもらいたい。
内容としては、テレビ取材を受ける際にほとんど撮影方法が固定化されており、Vket紹介→V店員紹介→アシュトン氏のようなインフルエンサー諸氏(アシュトン氏が嫌がるなら「ハマっている人」でも可)による文化紹介→VR睡眠やVR飲み会→お砂糖の紹介、というルーチンになっている、というものである。
「多くのインフルエンサーはバ美肉お砂糖以外の情報もセットで紹介している。」に対して、アシュトン氏のツイートを証拠として「VR睡眠やVket紹介がある」というならそれはそれで成立する。もちろん、「範囲が狭すぎる」「既に固定化しているというのが前のnoteにおける「スタンダード」の構築ではないか」という批判は成り立つが、それは内容レベルのことである。しかし、上の部分にすぐ続いて以下のように記される。
なぜ行政がでてくるのか、そこに論理的な展開が存在していない。そもそもテレビの話をしているのだから、行政の例は適当ではない上に、行政が「違うよ」という発信は何なのかが、ここまででは「NFTはメタバースの必須要件ではない」程度なので意味が通らない。
その次は以下の通りである。
ここは論点として重要である。上記アシュトン氏のツイートにもあるように、メディアが既に固定的な「メタバース」のあり方を撮影しようとしているので、多様な「メタバース」を撮影してもらえない状況があるというのだ。
これは、前述の「潜在的な利益」とも関係して非常に大きな論点である。ここでは、メディアの利益のためにメタバースでの振舞い方を固定的なものに仕立て上げていると読むことができ、それではメディアにメタバースが登場することは、メタバース原住民にとってどのような利益を生むのかを検討・考察・論証すべき部分である。
しかし、ここではインフルエンサー諸氏の誠実さを欠く説明の有無ということに話が移ってしまい、そちらとの関連はよくわからない。
以上のように、「相対化について」の部分は全体的に論証が甘く、主張に対して根拠となる資料が適切ではないようにみえる。
ややうがった目でみると、各々の場所で主張すべきテーマはあるのだが、それを上手く説明できず、「行政」という手持ちのカードを切って根拠として提示しようとしたと推察できる。
しかし、そのような手法で適切ではない資料を提示するよりも、主観でもいいので論旨を正確にすることの方が大切だと筆者は考えている。
2-2、メタバース原住民は置いてけぼりにされていないのか?
「原住民はしっかり「居る」」では、メタバース原住民が置いてけぼりになっているという筆者の主張に対し、以下のように主張されている。
筆者はインフルエンサー諸氏の文化の数々に耳を傾けていないのであれば、以下では耳を傾けさせる「文化」を例示してくれるのかと期待したが、そのような部分はなかった。また、「複雑に絡み合うことで文化が構築されている」もどのようなものなのかが示されていない。
傾けようと耳をすませても何も聞こえてこないのだ。これでは聞きようがない。
ただ、これ以降の部分と第3部では、筆者の最終的な主張である「一人一人が発信する」ことの重要さを確認して終わっているので、恐らく筆者と「批判」の執筆者は、目的は異なっても手段は共有できるものと思われる。
以上が批判部分である。
そしてこの後に、「バ美肉お砂糖は「スタンダード」であるか、なぜ「スタンダード」とされるのか、今後のメタバースにおける「スタンダード」になぜ筆者は抗おうとしているのか」という話が続く。もう5,500文字である。
もう少しだけお付き合い願いたい。
3、メタバースで嵐がおきるとき、海底で波は荒立つか?
3-1、バ美肉はスタンダードかを再検証できないか
まずは「バ美肉お砂糖は「スタンダード」であるか」から整理していこう。結論から言えば、お砂糖は実数の集計ができないので難しいが、少なくともバ美肉はスタンダードだということになる。しかし、そこに環境的な要因を加えるとどうなるかを考えてみたい、というのがここの趣旨である。
資料はバーチャル美少女ねむ氏の「ソーシャルVR国勢調査2021」である。
これによれば、物理男性(=リアルワールドでは身体的に男性)である人が使うアバターは、76%が女性であるという調査結果がでている。
また、物理男性でありながら女性アバターを利用する人の61%は「見た目が好み」という理由から、27%は「より自分を表現しやすいから」と回答している。
この調査結果から、「男性でありながら女性アバターを使い、そのうち見た目が好みだから女性アバターを使う」人は100×0.76×0.61=46.36%だとわかる。半分をやや割るくらいといえる。
ここでは、便宜上半数は「男性でありながら女性アバターを使い、そのうち見た目が好みだから女性アバターを使う」人と考える。
他の数値と比べてみても、バ美肉は多数派といえる。ならばここを議論する余地がないかというとそれは違う。それは、販売アバターと技術の面から考察する余地があるからだ。
VRChatなど、アバターをアップロードできるメタバースプラットフォームの場合、一から全部つくるいわゆるフルスクラッチである人は多くない。
依頼すれば15万円から応相談とも言われているし、blenderなどを用いて自前で作成できる人はそれほど多くない。そうすると、市販のアバターを購入するのがメインストリームとなる。
そして、販売アバターは圧倒的に女性アバターが多いのである。2022年6月時点では、Vroidの現行版が登場し、アバターミュージアムなどの影響から男性・動物・ロボなども増加しつつあるが、2021年段階だと今よりも若干そうしたものは少なかったように記憶している。
つまり、ここで何が言いたいかというと、「そもそも女性アバターが多く販売されており選択肢が豊富だから女性アバターを使用する人も多いのではないか?」ということだ。
別に、たとえそうだとしても上記国勢調査の意義は全く失われないが、今一度「環境」を踏まえた上で「バ美肉」を見直してみることが必要なのではないだろうか。
3-2、「権威」への抵抗と人々の存在の記録
ここが肝心である。ちなみにここまでで6,500字である。ここまでしないと筆者が伝えるべきことを伝えられないというのは、全く持って筆者の実力不足である。
この「批判」の元になった以前のnoteは、一番最後に少々カッコつけた文章を記載した。それは、読む人が読めばすぐわかるのだが、「レ・ミゼラブル」に出てくる「民衆の歌」の歌詞をパロディしたものだ。そこには筆者の想いがあったが、「批判」では完全にスルーされた。そこが最も大事であるにもかかわらず、だ。
筆者はインフルエンサー諸氏を批判しながら、それでも最終的にはインフルエンサー諸氏やテレビが伝える「スタンダード」に飲み込まれていくのが運命である、とまとめた。その考え方は今現在も全く変わっていない。
おそらく、「批判」の執筆者、途中で引用されていたアシュトン氏、それから名前はいちいち上げないものの、以前のnoteに批判的だったインフルエンサー諸氏は、今後『メタバース史』という歴史書が書かれたら名前が載る人々だろうし、少なくとも筆者はそこには載らない。別に載りたくもない。
だが、『メタバース史』に載る人々の足元には、無数の載らないメタバース原住民が居て、その日々の活動、営み、思想、「生き方」が彼らインフルエンサー諸氏が歴史に名を残す活動をできる下地になっているはずなのだ。
その、「載らない」人々の、見えないが確実に存在していた生き方を記録し、やがてやってくる「スタンダード」に飲み込まれない「何か」にしたい、というのが筆者の根源的な想いである。
筆者が好きな言葉がある。正確には記憶していないが「フランス革命という嵐が海の上で起こっていた時、海底ではこれまで通りの海流が穏やかに流れていた」という言葉だ。記憶によれば、これはアナール学派と呼ばれる歴史学者たちの一派のうち誰かが残した言葉だったはずだ。
今、メタバース空間で起こっていることは海上での大嵐だ。そして、この嵐を乗りこなしていく人々が、インフルエンサー諸氏なのだろう。
しかし、彼らだけがメタバースの歴史を創っているのではない。海底には変わらずに色々な深層海流が流れ続けている。その海底のあり方を何とかして残したいからこそ、以前のnoteで筆者は「多様な発信」をすべきだと主張したのだ。
政治や経済や資本やテレビやメディアやインフルエンサー諸氏によって構築されるメタバースの「スタンダード」に飲み込まれない海底の深層海流がいつまでもあることを筆者は望んでいる。
おわりに
これで反「批判」は終了である。こちらとしてもいい刺激になったうえに、現在政策レベルでメタバースに対して動き始めているということを整理し、貼り付けてくれたという点で感謝したい。
また、以前のnoteにせよ、これにせよ、色々と思うところがある人々が意見を発信してくれている。そうした発信こそ筆者の求める所であるので、是非とも続けて発信してくれたら望外の喜びである。
なお、主張と人格は別であることはいうまでもない。個人の好き嫌いは別なので、筆者は筆者が批判する人とも別にこれまでの関係を切ろうとは思ってない…いわゆる「喧嘩」ではないことだけ、念のため申し添えておきたい。切りたい人がいるなら勝手にどうぞ、という気持ちであることも重ねて申し添えておきたい。
本noteに対する批判、批評などは全て開かれている。Twitterなりコメント欄なり、あらゆる場所で「常識的な範囲で」何を言ってもらっても構わない。思うことはしっかり、言葉に残してほしい。以上でまとめを終える。
追記:「批判」への引用RTであった蘭茶三角氏のツイートは非常に面白かった。「キモイ」と思われる可能性が高いバ美肉お砂糖を保護するには、それをプッシュする必要があるというものだった。
筆者もこの辺りには共感でき、「キモイ」と思われるバ美肉お砂糖を保護する必要があるという部分までは一致しているが、その手段が蘭茶氏とは異なっている。いずれ、このことについて書くことになるだろう。